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第二十七章 カッターラ カスティーヨとアンドロポフは、マムード潅漑省次官の案内で、シェラキア州のカッターラに向かう車に乗っていた。 「カスティーヨ、サダト大統領はアスワンハイダムにまったく関心がないのかい?」 後部座席に座っていたユーリー・アンドロポフが、助手席に座っているカスティーヨに訊ねた。 「大統領はいま食料問題について懸命なんだ。それがこの国の一番の問題なんだから。ユーリー、君の国も食料問題が一番大変なんだろう?」 『ソヴィエト連邦・KGB議長と言えば、泣く子も黙る恐るべきポストであるのに、カスティーヨとユーリーの関係はまるで友達のようだ。一体どういう関係なんだろう?』 アンドロポフ議長の横に座っていたマムード次官は二人の会話を聞いていて不思議に思った。 カイロ空港を左に眺めながら、真っ白な砂漠の中を走る車は砂塵で視界がゼロになる。 前の車について行くモハマッドはジープを運転していた。 砂塵をもろに被って前がまったく見えない中を平然と走るモハマッドを前の車から見たアンドロポフは、カスティーヨに訊いた。 「あの青年は、君の肉親なのかい?すごい迫力を感じるね。KGBの若手で、あれだけ迫力を感じさせる者はちょっといない。今まで何をやっていたのかね?」 バスラでのハムシーンを経験していたモハマッドにとって、こんな程度の砂嵐など何でもない。 「イラクのバスラでテロリストの訓練を受けていたらしい」 カスティーヨの一言で、アンドロポフの眼鏡の奥の鋭い目が光った。 「テロリストだって?イスラエル政府の要人でも暗殺すると言うのかい?」 アンドロポフ議長下のKGBで、最重要任務がイスラエル政府要人のテロリストからの護衛であったことを知った上で、カスティーヨは言い放った。 イスラエル国家が建国されたのは1948年5月13日のスイス・バーゼルでの第一回シオニスト会議でのことであった。 そして翌日の5月14日、エジプト王国モハメッド・アリ国王率いるアラブ連合軍がイスラエルに宣戦布告した。 そして1952年7月23日、ナセル中佐が自由将校団のリーダーとしてイギリス、フランスに蹂躙されていたエジプト王国を無血革命によって転覆させ翌年1953年6月にエジプト共和国を建設、1956年には、ナセルが共和国大統領に就任した。 ナセルの影にはいつもフルシチョフのソ連がいた。 一方、イスラエル国家が建設された当時は、スターリンのソ連であった。 スターリンはソ連に住む貧乏なユダヤ人を迫害する一方で、裕福なユダヤ人を重用した。 そしてイスラエル国家建設において、当時のイギリス政府に貸しを与える為に、国連の常任理事国として協力した。 その裏では、イギリスの政界、経済界を支配するユダヤ人とソ連に住む裕福なユダヤ人との連携があった。 特にイギリス議会の議員の半数はユダヤ人若しくはユダヤ人の血が混ざった者で占められて、実質イギリスは彼らに支配されていた。 金力は経済力よりも恐ろしい手段である。 ソ連に住む裕福なユダヤ人から莫大な金を引出させたスターリンは権力の基盤を築いていった。 そしてイスラエル国家が建国された1948年から、ソ連に住む貧乏なユダヤ人をイスラエルに入植させてきた。 その見返りとして、親イスラエルの立場を取っていた。 そのスターリンが1953年に死亡すると、フルシチョフは中央委員会第一書記になり、スターリン路線と真っ向から対立する路を歩み始めた。 それがキューバカストロ政権とエジプトナセル政権の樹立であった。 そして露骨に反イスラエルを謳い始めた。 そういう中でナセル大統領が誕生した。 フルシチョフ政権は、ナセルの為にアスワンハイダム建設に協力してきた見返りにじゃがいもの供給をエジプトから受けていた。 しかし1964年、フルシチョフの必死の農業政策にも拘らず、アンドロポフの陰謀に敢え無く失脚させられたのである。 フルシチョフを失脚させたブレジネフは、スターリンやフルシチョフを反面教師として学んだ結果、独裁政治を避け、自分は共産党書記長のポストだけで、コスイギン首相とポドゴルヌイ国家元首を誕生させ表むきには集団指導体制に見せかけた。 その中で着実に実力を蓄えていたのがユーリー・アンドロポフであった。 農業政策が政権の喫水線であることを熟知していたアンドロポフはエジプト離れしているブレジネフとは裏腹に水面下でエジプトと気脈を通じていたのである。 その目玉商品がカッターラ潅漑プロジェクトであった。 カイロとポートサイドのちょうど中間点にあるカッターラはサハラ砂漠の東端に当り、サハラ特有の軽くて細かい真っ白な砂漠だった。 潅漑にとっては一番厄介な土地である。 ソ連離れしているエジプトを元へ引き戻して、ソ連の農業政策を成功させることが、次の政権奪取の切り札と認識してアンドロポフは、KGBとは無縁の農業政策に全力を傾けた。 それほどにカッターラ・プロジェクトはアンドロポフにとっても、またソ連や他の共産主義国家にとっても、アメリカの自由主義国家との最後の対決までの重要な経済政策の一つであったのだ。 それから20年後、ソ連が失敗したカッターラ・プロジェクトに再び挑戦する国があった。 日本政府が、民間企業の協力の下、国際援助でソ連の失敗したプロジェクトを成功させたのである。 |