第一章  運命の出逢い

幻想の中をモハマッドは歩いていた。
それは夢の中の現実なのか、将又、現実の中の夢なのか、彼に判る知識も経験もない。
モハマッド・ハッサンはエジプトの首都カイロで生まれた生粋のセム人だったが、風貌はどちらかと言えば、ハム人のものに極めて近かった。
その事が彼のこれからの運命に大きな影響を与えるであろうことを当人は知るべくもない。
それは幻想ではなかった。
それは現実であった。
姉のアバスがフンドック・アトラス(アトラス・ホテル)の爆破テロに巻き込まれて死んでから、幾歳が経過していたのだろう。
経過した年月などモハマッドには何の意味も持たない。
敬愛していた姉の死に唯一意味があったのだ。
彼が歩いていた幻想の世界はウルという実在する町であった。
メソポタミア文明を生んだチグリス川とユーフラテス川は、ペルシャ湾に流れ出る100kmほど手前で合流してシャトル・アラブ川になる。
チグリス川はイラクの首都バグダッド内を流れ、ユーフラテス川は古代バビロニアの首都バビロン内を流れる、共にイラク領内の大河だが、シャトル・アラブ川はイラク、イラン、サウジアラビア、クエート領内を悉く流れ、最後にペルシャ湾に流れ出る。
メソポタミア文明が人類文明発祥の地と言われる所以であるのは、シュメール人が、三大人種、つまり、アーリア系白人・黄色モンゴロイド・アフリカンブラックのルーツであり、同時期にこの地域から出現したからだ。
その中心の町がウルなのだ。
メソポタミア文明を生んだのがチグリス川とユーフラテス川なら、シュメール文明を生んだのがシャトル・アラブ川なのである。
イラクがチグリス川とユーフラテス川を独占できても、シャトル・アラブ川を独占することができない理由がここにあり、数千年の歳月が経った現在でも、各国が油田の権益争いをしている原因になっているわけだ。
まさに、文明の黎明期と終焉期がラップしているようだ。
人類の進歩など高が知れている。
ウルの町に足を踏み入れたことに気づいた彼は、バスラでの猛訓練のことを思い出した。

ウルの町の目と鼻の先にあるバスラは、世界でも屈指の灼熱の町である。
サハラ砂漠で発生した砂嵐(ハムシーン)が猛烈な熱帯モンスーンとなって、インド亜大陸を襲う。
インドのカルカッタで摂氏53度に達して、鉄道のレールが熱さで膨張して曲がりくねってしまい、列車が走れなくなったことがあるが、バスラでやはりハムシーンが襲って摂氏55度に達したのが史上最高の気温だと言われている。
アメリカ・ネバダ州にあるデスバレー(死の谷)では、毎年摂氏60度近くなるが、デスバレー国立公園は6月から9月まではホテルをはじめ何から何まですべて閉鎖され人気のまったくない時期に恐るべき高温になる世界最高の極暑地である。
バスラのように人がたくさん住んでいるところで摂氏50度を超えるのは想像を絶するものだ。
カイロで育ったモハマッドは、真夏に45度近くまでなった経験を子供の頃にしたが、さすがにバスラの暑さには度肝を抜かれた。
カイロも昔はハムシーンが頻繁に発生し、雨はほとんど降らなかったが、アスワンハイダムが建設されてナセル湖という巨大な人造湖ができてから気候が徐々に変わり、今では12月が雨のシーズンになる程に変わってしまった。
ナイル川の巨大な水量が天候に大きな影響を与えたのだ。
モハマッドとマンスールは、これから他の40人の仲間と一緒に極暑の地で厳しい訓練を受けるのだ。
「暫くは、わたしが教師となって訓練を行います」
マンスール・アル・ヒラジがモハマッドに伝えた。
「わたしが40人のリーダーになるとのことですが、一体どんな訓練を受けるのでしょうか?」
マンスールは暫く黙っていたが、ようやく重い口を開いた。
「あなたはリーダーになる方だから、はっきりと申し上げておいた方が良いと思います。聖戦(ジハード)の戦士なんですから、当然常に死を覚悟しておかなければなりません」
モハマッドは苦笑しながら応酬した。
「別にジハードの戦士でなくても、戦争に赴く兵隊は誰でも死の覚悟をしていますよ。わたしだって、シナイ半島に行った時は覚悟して行きましたよ。まだ20才になったばかりの子供でしたが・・・」
マンスールは表情ひとつ変えずに話を続けた。
「あなたはトッコータイとか、ニンゲンギョライという言葉を知っていますか?」
言葉の響きがアラビア語でも、英語でもない、およそ聞き馴れない言葉だ。
「いえ、知りません」
単純にモハマッドは答えた。
「さすがにリーダーになる素質を持っておられますね」
何のことかモハマッドは理解できなかった。
「わたしが、“知っていますか?”と訊ねたら、あなたはただ、“いえ、知りません”とだけ答えた。ここが非常に大事なことなのです。普通の人間は余計な言葉まで吐いてしまうものです。自己保身の顕れです。まさに墓穴を掘るとはこのことを言うわけで、ジハードの戦士として最もやってはならないことです」
頭の切れるモハマッドはマンスールの説明に応酬した。
「敵に捕らえられても、口を絶対に割らない訓練ですか?」
マンスールは、モハマッドの質問に応えず説明を続けた。
「マインドコントロールのことを話しているのですが、人間というのは、口先で死を覚悟していると言っても、いざ死と直面すると震え上がる人間が大半です。現代戦では銃やミサイルといった空中戦ですから、予想もしない瞬間に死がやってきます。恐ろしさで震えている暇もないのです。あなたはシナイに行って、目前に敵が現れて肉弾戦をしたことがありますか?あれば、今おっしゃったようなことを口に出されないはずです。本当に死を覚悟することは、大変な精神的プレッシャーなんです。さきほど申しましたトッコータイやニンゲンギョライというのは日本語です。日本がアメリカと戦争した世界で唯一の国であることをご存知ですか?」
日本という国のことを聞いたこともなかったモハマッドは、マンスールの話に興味を持った。
「アメリカと戦争をやった国はいくらでもあるんじゃないですか。ソ連もそうだし、ベトナムもそうですし・・・・」
モハマッドは自信無さそうに話した。
「わたしの言っているのは、正面から堂々と戦争をした国のことを言っているのです。ベトナム戦争は少し似ていますが、それでも、一国を相手の戦争ではありません。飽くまでゲリラ戦です。アメリカという国は、一対一で戦争をすると悪魔の本性を出す国で、それを世界の国はよく知っているのです。ソ連でさえ正面から戦争を仕掛けません。同じ人間が住む場所に原爆を平然と落す国ですから恐ろしいのです・・・それと彼らは非常に狡猾で、勝てる戦争しかやりません。第一次世界大戦でも情勢がはっきりするまで高みの見物をして、そして勝てると判断したら参戦しました。そんな国と正面から戦争をしたのは日本という国だけです。アメリカは絶対に勝てると判断して、当時のルーズベルト大統領は世界に対して日本への経済制裁を強制します。そしてインドネシアの宗主国オランダがインドネシアからの日本への石油輸出禁止をするのです。やり口が極まりない汚さです。わたしたちイスラム国家は、日本と似た精神構造を持っていて、いくら戦争といってもルールを守ります。国際法では、敵対国であっても一般住民の地を攻撃することは禁じられています。しかし、彼らは東京大空襲そして
原爆投下を平然とやります。これは明らかに国際法違反です。その国が東京裁判をして日本を弾劾するのです。こんな不条理がありますか。彼らアメリカ人は、日本のトッコータイやニンゲンギョライに怯えたのです。若い青年が、爆弾を抱えて敵の中に飛び込んで行くのです」 モハマッドもマンスールの話を聞いて仰天した。
「しかし、彼らは国のことを思って喜んで死んでいったのです。たとえそれが犬死であっても、彼らは国の為、国民の為に生命を捧げて死んでいけることに喜びと誇りを感じていたのです」
熱っぽく語るマンスールの目が潤んでいるのを見たモハマッドの目もキラッと光っていた。
「その日本という国はどこにあるんですか?原爆を落されてからどうなったのですか?」
モハマッドは親しみを感じた日本という国のことを知ってみたくなったのだ。
「原爆を落されてから25年が経ちましたが、やはりドイツと同じように優秀な民族なんでしょうね・・・もの凄い勢いで経済成長を遂げ、今やソ連を凌ぐ復活をしています」
日本という国の凄さを知ったモハマッドだった。
ソ連はナセル大統領の下にアスワンハイダムを建設した超大国で、アメリカと対等に戦うことができる国だと思っていた。
ソ連がもっと応援してくれたら、イスラエルとの戦いで一方的な負け方をしなかったとも思っていた。
アメリカから原爆を落された国が復活して、ソ連を凌ぐ経済大国になった日本に、モハマッドは驚異と尊敬の念を抱くのだった。
「日本の国の兵隊にトッコータイやニンゲンギョライがいたんですね?」
マンスールは頷いた。
「トッコータイやニンゲンギョライの戦士を訓練するのが、今回の狙いなんですね?」
モハマッドは誇らしげにマンスールに向かって言った。
「そうです。わたしも誇りに思います。アメリカやイギリスの兵隊にとっては、馬鹿げた愚かな行為だと思うでしょうがね・・・所詮価値観の違いだけです」
アメリカやイギリスの国の話をすると我を忘れて興奮するマンスールに違和感を持つモハマッドだった。
「それで精神力を養う為に極暑のこの地を選んだのですね?」
マンスールの考えていることが少しずつ解りかけてきたのだ。
「わたしが教師になると申しましたのは、円舞を訓練するからです」
モハマッドはマンスールの考えていることがやっと解りかけてきたのに、円舞だと言われて将又戸惑うのだった。
戦士にダンスを教えると言う。
「円舞がジハードの戦士の精神訓練にどうして役に立つのでしょうか、わたしには想像もつきません」
両手をあげて万歳をするモハマッドの前で、マンス−ルはぐるぐる両手を広げて回り出した。
「何と美しい姿なんだろう!」
モハマッドは感動した。
人間の精神修養に一番の栄養分が感動することであるのを理解できるまで、モハマッドの精神レベルが到達しているはずもなかった。