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第十九章 再会 ケスラの村を出たマハマッドは、シャトル・アラブ川沿いにペルシャ湾の出口に向かった。 ペルシャ湾のイラン領の出口にコーラムシャーという港町がある。 ペルシャ湾(Persian Gulf)は、アラブ諸国の間ではアラビア湾(Arabian Gulf)とも呼ばれているが、正式名は単に(Gulf)だ。 (Gulf)の東岸はすべてイラン領であり、西岸はイラク、クエート、サウジアラビア、バーレン、ドーハ・カタール、U・A・E、オマーンとアラブ諸国が陣取っているが、これらのアラブ諸国はすべてアメリカの傘下にある。 イランがパーレビ政権の頃、つまり、1979年4月1日までは、この(Gulf)は東岸も西岸もアメリカが完全に掌握していたが、イラン革命が起こり、パーレビ政権からホメイニ政権になると同時にアフガン戦争が勃発したのは極めて象徴的である。 西側諸国と東側諸国の対立として起こった冷戦は、世界を真二つに割った闘いだと言われてきたが、実は骨肉の争いに過ぎず、イデオロギーの対立も所詮は骨肉の争いの派生に過ぎなかった。 つまり、資本主義対社会主義というイデオロギーの戦いは、所詮、利益社会(ゲゼルシャフト)内の仲間争いに過ぎない。 一方、キリスト教対イスラム教も同根宗教の骨肉の争いだが、文明の衝突という点においては、不倶戴天の敵同士である。 ベトナム戦争そしてアフガン戦争は、冷戦の盟主であるアメリカとソ連の代理戦争が泥沼化によって代理戦争でなくなったのに対し、文明の衝突としてのキリスト教圏とイスラム教圏の闘いは端から泥沼戦争だ。 1948年に始まった中東戦争の頃は、アラブ諸国の盟主であったエジプトだが、イスラエル和平会議を断行したサダト大統領の暗殺事件後、エジプトはアラブ諸国の盟主の座から転げ落ちた。 エジプトに取って代わったのがサウジアラビアだ。 ゲリラ組織Al Qaedaのリーダーであるオサマ・ビン・ラディンはサウジアラビア人である。 一方、新しく誕生したテロ組織のリーダーであるモハマッド・ハッサンはエジプト人である。 アメリカのCIAの庇護の下、誕生したゲリラ組織Al Qaedaとモハマッド・ハッサン率いるテロ組織とは出自がまるで違う。 コーラムシャーから(Gulf)に出たモハマッドは、マンスール・アル・ヒラジが待つドバイに向かった。 ドバイはU・A・E(United Arab Emirates−アラブ首長国連邦)の一つであるが、他のEmirates(首長国)とはまるで違う国だ。 アブダビやシャルジャーといったEmirates(首長国)は純粋アラブの国だが、ドバイはイラン人の国である点だ。 その中でも、嘗てのアケメネス朝ペルシャの血を引いたペルシャ王族の末裔であるガラダリ一族はドバイで権力を堅持していた。 マンスール・アル・ヒラジはそのガラダリ一族の血を引いているのだ。 ドバイには有力な一族として、アル・フタイム家とガラダリ家がある。 共にイランの古都・シラズ出身のイラン人であり、シラズにある遺跡ペルセポリスはアケメネス朝ペルシャの首都であったところだ。 紀元前331年、マケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされるまで、一大勢力を誇った王国である。 紀元前597年。 新バビロニアのネブカドネザル王はイェルサレム市街に入城し、ユダヤ人の王エホヤキムを殺害し、3,023人の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。 エホヤキムの息子のエホヤキンが王国を嗣いだが、ネブカドネザル王は謀反を恐れ、エホヤキンをはじめとしてイェルサレムの若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させた。 その数は10、832人に達した。 第一次バビロン捕囚である。 紀元前586年。 エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、イェルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行され、ユダヤ捕囚民の大部分はバビロニアにあるニップル市の灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた。 第二次バビロン捕囚である。 この地域は嘗てアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは減少した人口を補うためであった。 職人のような熟練労働者はバビロン市に移住させられ、主として建設事業に従事させられた。 ネブカドネザル2世が都市開発に熱心だったからである。 捕囚民達は当初、バビロニアへの強制移住は一時的なものであり、いずれ新バビロニアは滅亡して、故国へ帰還できるという楽観論を持っていた一方で、イェルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えた人々がいた。 楽観論を持つ捕囚民達は、「救いの預言者」と呼ばれたこれらの人々の警告に耳を傾けることはなかった。 しかし、紀元前586年にイェルサレム神殿が破壊されると、捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。 故国イェルサレムに帰れるというユダヤ人の希望は消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は現地の文化の著しい影響を受けることになる。 世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。 エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロン」の種の意)の例に見られる如く王族の間ですらその傾向は顕著であった。 月名にバビロニア月名が採用されたのもその一つである。 旧来のユダヤ月名は「第一月」「第二月」のように番号でもって呼称されていたが、これが「ニサン月(第一月)」「イヤル月(第二月)」のようにバビロニア名でもって呼ばれるようになった。 文字文化にも大きな影響が齎された。 旧来の古代ヘブル文字に変わって、アラム文字草書体が使用されるようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるようになった。 古代オリエント社会では、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わらない。 紀元前597年の第一次バビロン捕囚、及び紀元前586年の第二次バビロン捕囚で、当時の新バビロニア(現イラク)に奴隷にされたユダヤ人を、新バビロニアとの戦いで勝利したアケメネス朝ペルシャのキュロス王は、奴隷にされていたユダヤ人42、462人を解放し、故国イェルサレムに戻ることを許した。 紀元前537年のことである。 旧約聖書イザヤ書に当時の模様が記されている。 “主は彼の油が注がれた者(使わされた者)キュロスに向かい、かく語りたもう。 「我は彼の右手を支え、諸国民を彼の前に屈服せしむ。 我は諸王の腰を砕き、二つの扉を持つ門を彼の前に開かん。 門は閉ざされることなし。 我は汝の前に行き、起伏あるところを平地となさん。 我は真鍮の門を粉砕し、鉄の門を断ち切らん。 我は汝に暗闇の宝物、秘所に隠された富を与える。 其は汝を汝の名によりて呼ぶ我、主がイスラエルの神なることを汝が知らん ためなり・・・」” 故国イェルサレムに戻ることを許されたユダヤ人たちだったが、多くのユダヤ人たちは、バビロニアに残留する道を選んだ。 バビロン捕囚以来60年も経ち、多くのユダヤ人たちはバビロニア生まれのバビロニア育ちであり、特にバビロニアで誕生したタルムードの教えを信じていたからだ。 タルムード信仰はモーゼの教えであるトーラ(律法)とは、まったく異質の還俗的な教えであり、その後、現代社会の経済概念の基礎にまでなった考え方は、このタルムードの教えが原点になっている。 現代の金融手法は、まさに、タルムードの教えを踏襲したものであり、銀行、嘗ての両替商や高利貸し(近年、日本を席捲しているサラ金業者の元祖はタルムード信仰である)の発想はタルムードそのものである。 しかし、ユダヤの王族たちは、パレスチナの地に戻り、破壊されたイェルサレム神殿を再建し、アケメネス朝ペルシャのキュロス王に屈服した。 「やあ!お久しぶりです!」 マンスール・アル・ヒラジから口を開いた。 ウィーンのオペラハウスで姿を消して以来だ。 モハマッドは、以前とまったく変わらないマンスール・アル・ヒラジの真摯な態度と礼儀正しい口調に、憎しみを通り越して、今では懐かしさすら感じるのであった。 |