第二章  中東戦争

1948年5月14日。
中東戦争が勃発した。
スイスのバーゼルでイスラエル国家が成立した次の日に、アラブ連合軍が建国翌日のイスラエルを攻撃したのだ。
モハマッド・ハッサンはカイロ郊外で綿工場を経営するオサマ・ハッサンの長男として、奇しくも第一次中東戦争勃発の日に誕生した。
ナセル大統領の時代のエジプトは社会主義の嵐が吹き、利益追求の営利企業は認められず、太古の昔からシルクロードの隊商として商いに長けていたレバノン人やシリア人に搾取され、綿花から紡いた糸を彼らに安く叩かれる貧しい時代が続いたが、そこに中東戦争が勃発した。
スーダンの首都ハルツームで青ナイルと白ナイルが合流したナイル川は、カイロで再び二つの川に分かれる。
ナイル川の東側の海への出口・ポートサイドはスエズに近く、米国から圧倒的な近代兵器の供給を受けているイスラエル軍は、シナイ半島を占拠し、スエズ運河までを手中に収め、エジプトの唯一の商業港に迫ろうとしていた。
レバノン、シリア、更にヨルダン、イラクも合流したアラブ連合軍が、圧倒的軍事力と経済力を誇る東西冷戦の西の横綱・米国の対イスラエル援助と同じものを、東西冷戦の東の横綱・ソ連に期待するのが無理だった。
アラブ連合から戦争を仕掛けた第一次中東戦争はイスラエルの圧倒的勝利に終わり、エジプトはシナイ半島を奪われる結果となった。
それから二十年近い歳月が過ぎ、モハマッドはカイロ大学のアラビア語学科に通っていた。
1967年第三次中東戦争が勃発し、モハマッドは徴兵されアラブ連合軍の将校として戦地のシナイ半島に赴いた。
彼がそこで見た光景はおよそ戦争とは思えなかった。
まるで大人と子供の喧嘩であり、敵のイスラエル軍のやりたい放題の中で、味方の軍は自分の身を守ることで精一杯だった。
ナセル大統領がカイロで雄々しく演説したアラブ連合軍の勇敢さなど微塵もなく、結局は、聖地イェルサレムまで完全支配される結果となった。
1969年。
エジプトの隣国・リビアで、当時陸軍少佐であったカダフィーが軍を指揮してリビア無血革命に成功し、シリアのアサドもヨルダンのフセイン国王と袂を分かち、ソ連寄りの体制を確立し、自ら大統領に就任して、リビアのカダフィー大佐と連携プレーを取りながら反米姿勢を明確に打ちだした。
1973年。
第四次中東戦争でイスラエルは米国から供給された近代兵器で以って、遂にパレスチナ全域をその支配下に置くことに成功し、1947年11月19日にイスラエル国家と共に成立したアラブ国家パレスチナは消滅した。
1967年の第三次中東戦争で、アラブ連合軍に参加したモハマッドは、徴兵の義務感だけの気分でいたが、子供同士の喧嘩の中に、米国という大人が割り込み、イスラエル側に一方的に加担して、敵側の子供たちをずたずたにしていく光景を目の当たりにして、イスラエルよりも米国に対する憎悪の気持ちを強めていくのだった。
ソ連の後ろ盾で権力を握っていたナセルの名声も、シナイ半島を奪われることによって地に落ちていった。
ナセルのエジプトとはまったく違った道を歩み出したリビアのカダフィー大佐は、冷戦の主役である米国ともソ連とも与しないで、イスラム教圏の結束を高々と訴え始め、彼にエールを送るアラブ国家が次々と出現しだした。
イラクのフセイン、シリアのアサドがその急先鋒となり、アラブ国家間にも不協和音が出て来た。
レバノンのベイルート紛争がそういう中で勃発した。
シリア軍がベイルートの郊外にあるシリアとの国境ゴラン高原に攻め入ったのである。
レバノンの首都・ベイルートは地中海のパリとまで言われた町で、海岸沿いに立ち並ぶホテルとレストランはまさに観光客で年中溢れていて、その中心街のハネダは歓楽街のアーケードで、イスラム教国でありながら国際色豊かな売春婦が屯して、観光客のみならず軍人を相手に商売をしていた。
傷心でカイロに帰ったモハマッドは二十二歳になり、カイロ大学に復帰したが、勉強に身が入らず、父親の事業の手伝いをしていた。
カイロからナイルデルタの農業地に行く途中に綿花工場があって、そこでマネージャーをやっていた時、ナセル大統領死亡のニュースが入って来た。
アラブ連合の指導者として名声をほしいままにしていたナセルだったが、数回に亘るイスラエルとの戦争の敗北が、彼の心身を蝕んでいたのか、まさに青天の霹靂のような出来事だった。
ナセルの後を継いだサダトはスーダン人の血を強く引いた温和な大統領だった。
彼の政策は内政に向けられた。
「オープン政策」という名の下に、ソ連寄りの政策から自由主義国家を目差し、内外の経済行為をすべて開放して自由貿易を促進し、同時に、レバノン人とシリア人に牛耳られていた国内の商売を取り返す為、エジプト人以外の商売を禁止する政策を打ち出し、エジプト国民から大歓迎を受けた。
サダトによる「オープン政策」は忽ち欧米自由主義国家からも大歓迎され、エジプトに対する投資の嵐が一挙に吹き出した。
カイロ市内には多くの高層ホテルが建ち、ホテルにはカジノまであり、イブニングドレスとタキシードを着た外国観光客のみならず、エジプト人のハイソサエティーが週末の木曜日になるとホテルを活気づけた。
オサマ・ハッサンの経営する綿花工場も、サダトの政策で一気に利益を上げ、モハマッドの商売センスの良さに期待していたオサマは、モハマッドに跡を継がせたいと思っていたが、モハマッドの戦争による傷心は癒えていなかった。
暇があれば彼はナイルの中の島にあるドッキに建てられたシェラトンホテルのカジノに通い、博打と女遊びに耽る毎日を続けていた、そんな中で、アレキサンドリアに拠点を置いて大規模なビジネスを展開していたモハマッド・ガラブと偶然出会ったのだ。
ナイル川のもう一つの地中海への出口であり、有名なクレオパトラが住んでいた美しい港のある古都アレキサンドリア生まれのモハマッド・ガラブは四十才を超えた男盛りの時期を迎え、絶頂の時期にいた。
モハマッド・ガラブとのドッキ・シェラトンのカジノでの出会いが、モハマッドのその後の人生にとって決定的なものになるとは解かるべくもなかった。