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第二十二章 牙を抜かれた狂犬 ベルリンの壁が崩壊するまで、リビアの国家元首・モアマール・カダフィー大佐は、シリアのアサド大統領、イラクのフセイン大統領と共に、最も危険な人物と世界の警察国家アメリカから看做されていた。 ところが、1979年にイラン革命が起こり、それまで親米派だったイランが反転、反米派になったのがきっかけで、カダフィー大佐の反米運動が一気にトーンダウンしはじめたのである。 理由は明確だった。 アメリカの十八番(おはこ)である経済制裁が功を奏したのである。 イランの石油がイラン革命によってアメリカの自由にならなくなった頃から、アメリカの経済制裁の内容が変わりはじめたのである。 イラン革命が成立した同年、テヘラン大学の学生を中心にしたイランの群集はアメリカ大使館を占拠し、大使館員52名をスパイとして監禁した。 拘束は444日間続き、アメリカ軍のヘリコプターによる救出作戦も失敗に終わり、カーター政権は崩壊した。 テヘランから輸送された52名の人質はリビアの隣国アルジェリアで解放された。 人質事件が勃発すると同時に、アメリカ政府は国連でイランへの経済制裁を提議し、以降アルジェリアで解放されるまで、西側先進諸国はイランに対する経済制裁を実行した。 しかし、この経済制裁は効果を発揮しなかった。 オイルダラーを豊富に持つイランは、三国間貿易によって経済制裁の網の目を潜っていたのである。 香港、シンガポールといった第三国経由で、西側先進諸国の企業はイランに輸出を続けていたため、イランへの輸出禁止措置という経済制裁は有名無実なものになっていたのである。 アメリカ政府は、物を抑えても、資金を抑えなければ、制裁の効果が発揮されないことに気づいた。 以降、アメリカの経済制裁は金融制裁に絞られていき、カダフィー大佐のリビアへの経済制裁も金融制裁へと変わっていった。 第三国経由で禁輸物資を調達していたカダフィー元首もこれには音を上げた。 特に国民を大事にする彼にとって、衣食住に関わる物資の禁輸措置は受け入れ難いものだった。 カーター大統領の後を継いだレーガン大統領は、カダフィー元首のことを、“カダフィーは梅毒の末期症状にある狂犬だ!”と世界に喧伝した。 そして、暫くおとなしくしていたカダフィーが動き出したのである。 |