第二十八章  新しい世界

ローマ帝国の最後の必然が遂にやって来る。
ローマ帝国の最後の必然こそアメリカ合衆国という帝国の崩壊であり、人間の傲慢さがつくった必然説が、ミイラ取りがミイラになるように、自滅というシナリオを終結させる。
人類という所詮地球の一構成員、つまり、部分(部品)に過ぎない存在が、全体である地球を差し置いて、己が全体かの如く振舞う故に「部分の必然説」などと馬鹿げた寝言を言うのである。
部分(部品)にとっては、すべては偶然の出来事なのだ。
全体にとって必然であるだけだ。
全体である地球の目的、つまり、存在意義と、部分(部品)である人類の目的、つまり、存在意義とはまったく違う。
車という全体の存在意義は「走る」ことであるが、「動力の産出」がその存在意義であるエンジンという部品にとって、「走る」ことは予測不可能な偶然の出来事であり、ハンドルという他の部品の存在意義である「方向修正」も予測不可能な出来事なのである。
それを、車全体の予測など不可能なエンジンという一部品が、予測可能、つまり、必然などと思い込むことがまさに傲慢さの為せる業であり、いずれ全体からのしっぺ返しを必ず食らうことになる。
モハマッド・ハッサンが中心になって、国のエゴを超えた、人間と自然を貫く「新しい文明」を目指した「超人間社会」を建設する。
「文明の衝突」とは、お互いの国のエゴの衝突に外ならない。
況してや、「文明=宗教」とする「文明の衝突」など、国の一握りの存在である支配者たちのエゴ以外の何者でもない。
軍隊にもヒエラルキー組織があるのがその証左だ。
決して危険な前線に身を置かない一握りの連中が組織のトップを占め、常に前衛にいて命のやり取りをしている圧倒的多数の連中が組織を支えているにも拘わらず、勝利の美酒に酔うことができるのは組織のトップを占める支配者の連中であり、敗北の痛みを味わうのは組織を支えている被支配者の連中である。
国家の為という名目で徴兵される。
農業で得た米の大半を年貢という名目で召し上げられ、戦になれば前衛の歩兵として命を張らされた、戦国の世と何ら変わらない。
それが「文明の衝突」の正体だ。
『そんな組織など、もうまっぴらだ!』
『自分たちの為に命を張って戦うのなら仕方がない!』
『ピラミッド型の組織とは、もうおさらばだ!』
人間と自然を貫く「新しい文明」を目指した「超人間社会」を建設するための組織とは、「ピラミッド型組織」ではなく「スクエアー型組織」である。
「才能」という言葉がある。
持って生まれた能力のことであり、それは各自が必ず固有の才能を持っていることを示唆している。
「使命」とは自己の才能に目覚めて開花させることである。
各自が「使命」に目覚めたら、その組織は極大の力を発揮することが可能になる。
その組織こそ「スクエアー型組織」だ。
各自が「使命」に目覚めず、「命令」に従ったら、その組織は極小の力も発揮できない。
その組織こそ「ピラミッド型組織」だ。
ケセラの村で老人と出逢ったことで、モハマッド・ハッサンは自己の「使命」に目覚めたのである。
白い壁の家の中から、その老人は窓越しに西の方向に指さした。
「人間の祖・アブラハムは、このケセラという村から西へ向かった。
アブラハムから11代目の末裔にモーゼがいて、モーゼから11代目の末裔、
22代目の末裔にイエス・キリストがいて、更に11代目の末裔、33代目の末裔がいま出現しようとしている。
その進化過程がダルーンの意味するところであり、33代目の末裔はこのダルーンという標識を探して必ずこのケセラという村にやって来る筈になっている」
帰巣本能が発揮されて必ず、このケセラの村に戻ってくると、その老人は言う。
「わたしが、その33代目だと言われるんですか?」
モハマッドの質問にも、その老人は答えずに、更に続けた。
「理屈で物事を考えることは決して実現しないのだ。
そこには願望が無意識下に秘匿されているからだ。
今までの人生を振り返って見ればよくわかる筈だ。
現実に事が起こったことはすべて、考えたことではなく、感じたことの筈ではなかったかね?
願望とは考えることであって感じることではない。
今、お前さんは何かを感じている筈だ」
モハマッドは黙って聞いていた。
「わしの後をついてくるがいい・・・」
自己の意識が何かに押し流されていく感じがするモハマッドには為す業もない。
大津波が大海の中をひたひたと拡がっていくように、時空を超えた瞬間が刻を刻むように拡がっていく。
ひとつ一つの繊細なうねりが巨大なエネルギーとなって、陸地を呑み込むように、時間と空間の織り成す縞模様のうねりが、巨大なエネルギーに溶かされ、一枚の空飛ぶ絨毯となって飛んで行く。
空飛ぶ絨毯に乗った二人がケセラの村を鳥瞰する。
時速400kmで狙い定めた獲物に急直下する隼の目がズームするように、モハマッドはある一点に焦点を絞った。
「お前さんが帰る所だよ」
老人が指し示す。
「わしの後をついてくるがいい・・・」
老人がモハマッドを窓越しに誘い、窓の外を指し示したのは極めて象徴的なことである。
聖書の中にこんな言葉がある。
「盲人が手探りをする・・・」
盲人がなぜ手探りをする必要があるのか。
聖書が言う盲人とは、人類すべてを指しているのだ。
真実のものを見えない盲人が人類なのであり、人類が暗闇の世界、つまり、この世の中で、手探り状態にあると言っているのである。
老人が窓越しにモハマッドを誘い、窓の外を指し示したのは、暗闇の中に一点の灯りを灯したのである。
真暗闇の森の中を手探りで歩いていた人間が、一点の灯りを灯されて、森の中の道を知れば、たとえ一瞬の灯りであって、再び、暗闇の森になっても、道があることを知ったその人間は、その後、手探りをせず、森の道を信じて堂々と歩くことができる。
彼は盲人ではなくなっているからだ。
しかし、人類の殆どは依然、盲人だ。
なぜなら、森の道があることを知らないから、信じていないのである。
「新しい世界」の誕生という夜明けの前の真暗闇の中で、人類の殆どは盲人同然なのである。