第三十五章  石油成金

地下では同じ油田が、地上に吹き上げた場所が、サウジアラビアであり、クエートであり、イラクであり、イランであるのが、アラブ産油国の実体である。
サダム・フセイン政権下のイラクがクエートに侵攻した。
イラクのクエート侵攻が湾岸戦争のきっかけになり、国連決議をした嘗ての連合軍が「多国籍軍」と名を変えてイラクに侵攻した。
同じ油田だから、汲み上げた者勝ちである。
だから、各国毎に一日当たりの汲み上げ量を定めているのだ。
砂漠の民が、井戸の利権で戦争をするのとまったく同じ発想なのである。
井戸水が井戸油に代わっただけである。
“やられたら、やり返す”
“目には目、歯には歯”
これが聖書民族、つまり、砂漠の民の掟だ。
砂漠の民とは聖書民族のことであり、キリスト教圏のアメリカやヨーロッパも、イスラム教圏の中近東も結局は同じ砂漠の民なのである。
嘗て、井戸水の利権で殺し合いをしていたように、今では、井戸油の利権で殺し合いをしているのだ。
石油の発掘の歴史はアメリカのフィラデルフィアで起こった。
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは、 ビンガムトン(Binghamton)の北西20マイルほどのニューヨーク州ティオガ郡リッチフォードでウィリアム・エーヴリー・ロックフェラーとその妻イライザ・デイヴィソンの6人の子供の2番目として生まれた。
1853年、一家はオハイオ州クリーヴランドに転居し、ここでロックフェラーは記帳係として働き始めた。
1858年、彼はモーリス・B・クラークと共にクラーク・アンド・ロックフェラー社を設立し、同社は1862年に製油会社に投資を行った。
しかしクラークと対立したロックフェラーは、1865年に持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解散し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は、処理能力が1日に原油500バレルであった)を72,500ドルで買収し、買い取った権利を基にロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。
同年、第二の精油所スタンダード・ワークスを設立し、弟のウィリアム・ロックフェラーを社長にしたが、この頃から鉄道会社からリベートを受け取るようになる。
1867年、ロックフェラー・アンド・アンドリュース社はこの精油所を吸収し、ヘンリー・M・フラグラーが経営に参加し、さらに規模を拡大するために、1870年にロックフェラー兄弟とフラグラー、アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスがスタンダード・オイル社(Standard Oil Ohio (SOHIO)ソハイオ)を創設し、ジョン・D・ロックフェラーが社長に就任し、世界最大の間接権力を手に入れた。
1870年代の初めにアメリカ製油業史上における二人の開拓者、チャールズ・プラットとヘンリー・H・ロジャーズはサウス・インプルーブメント社との不名誉な闘争に巻き込まれることとなった。
それはペンシルバニア鉄道(PRR)および他の鉄道会社から秘密裏にリベートを受けとったことに関するものであった。
ロックフェラーとサウス・インプルーブメント社の共謀はペンシルバニア州西部の独立した石油採掘業者および製油業者の憤慨を呼び起こした。
ニューヨークの精製業者によるサウス・インプルーブメント社に対する反対活動はロジャーズによって率いられ、ニューヨークの精製業者達は協会を組織し、チャールズ・プラット・アンド・カンパニーの代表としてロジャーズを含む三名の委員をオイル・シティの石油業者組合の顧問に送り込んだ。
彼らはペンシルバニアの独立石油業者と共に、PRRおよび他の鉄道会社からサウス・インプルーブメント社との疑わしい取引を終了すると約束する協定を取り付けた。
ロックフェラーはスタンダード・オイル社を組織し始め、反対者の買収を開始した。
カルテルの経験から買収を進め、企業協定ではなく企業合同を実現させようとしたが、巨大化していく過程で法人化した企業は法人格の付与を行った州の外では資産が所有できないという法的障害を抱えるようになった。
そこで、主要な事業をしている州すべてに別個にスタンダード・オイル社を設立した後にトラスト協定を書き上げ、それらの会社の株式を受託者に預託し、株式を共通化し、その預託者による理事会を創設して巨大なグループにまとめあげ、更に、グループ経営を円滑にするために経営委員会を設置した。
更には、この経営委員会が理事会に代わってグループの実際の経営を行い、この委員会の下には輸送やパイプラインなどを担当する専門委員会があった。
ロックフェラーは協力と統合の計画を持ってチャールズ・プラットに接近した。プラットはロジャーズとロックフェラーの提案について協議した結果、統合が利益になると判断した。
ロジャーズは条件を文書化したが、それはプラットと自分への金融的保証と仕事の保証をその内容とするものだった。
ロックフェラーはロジャーズの申し出を受け、チャールズ・プラット・アンド・カンパニー(アストラル・オイルを含む)はロックフェラーの事業に加わる重要な独立製油業者の一つとなった。
プラットの息子、チャールズ・ミラード・プラットはスタンダード・オイルの重役に就任し、ヘンリー・H・ロジャーズはロックフェラーにとって重要な人物の一人となった。
スタンダード・オイルは、徐々にアメリカ国内で石油生産の支配権を獲得した。巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し続けたそのビジネス手法は厳しく批評され、批判の声は各州で独立製油業者が組織し始めた1882年まで増幅した。
そして数年後には、スタンダード・オイルは反トラスト運動の格好の標的として攻撃されたが、その後も着々と同業者の買収を進めていき、原油生産から石油精製、小売に至る石油に関する全部門を支配した。
その結果、スタンダード・オイル社は石油市場の90%を支配するに至った。しかし、世論は次第に「反独占」「反トラスト」へと向かい、1890年にシャーマン反トラスト法が成立し、政府も世論と同じ態度を取るようになり、スタンダード・オイルに対して反トラスト訴訟を起こし、1892年にオハイオ最高裁判所からトラスト協定を破棄すべしとの判決を受けたが、1899年にニュージャージー州で州内の法人が他の法人の株式の所有を認める法律が成立したため、この法律を使い再編成が可能となり、トラストを解体し、ニュージャージー・スタンダード・オイル社に全米にある系列会社の株式の全部又は大部分を所有させ、合法的な持ち株会社にすることが可能になった。
この再編成の結果、全国規模の事業展開が可能になる上、トラストに対する攻撃に対しての緊急避難口となった。
しかし、スタンダード・オイルに対する批判や訴訟は依然として多く、特に1904年のイーダ・ターベルによる『スタンダード・オイルの歴史(The History of the Standard Oil Company)』出版後にはその攻撃の声は高まり、ついに1911年5月15日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率を保持した)が市場を独占していることで解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割された。
現在あるエクソンモービル、シェブロンは旧スタンダード・オイルが前身になっている。
ロックフェラーは1895年に事業から引退したが、1911年まで社長の職に在籍した。
嘗て彼は、鉱山およびスペリオル湖での鉱石運搬船を含む大きな製鉄会社を保有していたが、U.Sスチール社にそれらを売却した。
さらに彼はチェース・マンハッタン銀行に重要な役割を果たした。
なお、2001年段階でロックフェラーの財産を現代の価値に換算した場合、2,000億ドル(25兆円)に上ると推測される。