第七十章  聖書の話

モハマッド・ハッサンと村木兵庫は、北イエーメンの港町ホデイダからタグボートを調達した。
ペルシャ湾で汲み上げられた原油を運ぶ巨大なタンカーを大海まで引っ張っていくのがタグボートだ。
ヨーロッパ諸国に運ばれる原油を積んだタンカーは、ペルシャ湾からアラビア半島の靴の底を迂回して紅海に入り、紅海を北上してスエズ運河に辿り、そこから地中海に出る。
インド洋から紅海に入るタンカーを引率するのがタグボートの役割だ。
紅海に面している港町ホデイダは、サウジアラビアの港湾都市ジェッダよりも南に位置し、アラビア半島の靴の先に近いため、タグボートの需要が多く賑わっている。
モーゼが海を割った紅海が目の前に迫っていた。
『ここが3500年前にモーゼが割った海なんだ!』
村木は50年近く前、まだ彼が小学生の時に観た「十戒」という映画を思い出した。
その時は、モーゼの目前に迫る海が紅海ということなどまったく知らず、大きな川だと子供心に思ったものだ。
向こう岸がある海など聞いたことがない。
落ち着いていたモーゼは紅海に迫り出した岩の上に立って、天に向かってアロンの杖を突き上げて、主に向かって叫んだ。
「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」
映画の中では、モーゼ自身が何か叫んでいた。
そうすると、驚いたことに手前の岸から海が両側に裂けていくではないか。
まだ子供だった村木は感動した。
本当にあった話だと、その時は信じていたし、その思いは以後45年間持続していた。
しかし、彼がイランで駐在していた5年の間に、そんな話はあり得ないという心境に変わっていたのだ。
それほどに、中東という地域は自然条件のみならず、人為的条件も熾烈極まるものであったからだ。
ところが、3500年前にモーゼが割った海を目前にして、単なる逸話や絵空事でない臨場感に襲われたのである。
『ひょっとしたら、本当の話だったのかも知れない!』
タグボートの甲板から海を眺めていた村木はハッサンに向かって言った。