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第七十七章 戦士と兵士 ナイル川の上空で発生したハッシシが東に向かって猛烈な行進を始めた。 モハマッドはバスラでの出来事を想い出すのであった。 ハムシーンが過ぎたあとの空は、まるで透き通った雲一点ないガラスのようなものだ。 空気は完璧にスクリーニングされ、砂に埋もれた町並との極端なコントラストは、初めて体験するものには、別世界の雰囲気を感じさせる。 ハムシーンの実相を肌で感じる為の訓練だったが、ハムシーンが過ぎ去った後にも訓練が待ち受けていた。 口の中も鼻の穴にも細かい粒子の砂で詰まっている不快感をやっとシャワーを浴びることで解消出来ると思っていた連中に、マンスールは静かに伝えた。 「今から、ハムシーンの実体について、わたしが講義しますから、そのままの恰好で、講義室に入って下さい」 命からがらの訓練をやっと終えて、ほっと息をついていた連中がざわざわ騒ぎ出したが、モハマッドが制止した。 「我々は訓練を受けに来ているんだ。文句を言うのではない!」 モハマッドの迫力ある一喝に、みんな黙ってしまった。 講義室に入ったマンスールは41人の訓練生に向かって話し始めた。 「今日みなさんは、ハムシーンの本当の姿を体験されました。いわばハムシーンの肉体を知ったわけです。しかし、それが精一杯だったと思います。処女の娘が初めて男と交わる時の精神状態と同じで、無我夢中で相手のことを体で感じるのが精一杯です。みなさんもハムシーンを体で感じるだけで精一杯だったと思います」 マンスールが何を言いたいのか、みんなさっぱり解からなかった。 モハマッドだけは、何となくマンスールの言いたいことが解るような気がした。 やはり、トリポリからずっと一緒にいたので、マンスールの考え方が大体わかっていたからだ。 「今から、ハムシーンのすべてを解明してみたいと思います。処女の娘が相手の男の気持ちを理解する過程を考えてみれば、その方法が見つかると思います」 性の話が始まったと思った、連中は体を乗りだしてマンスールの話に聞き耳を立てる様な姿勢に急に変わった。 「処女の娘と交わる男の気持ちはどんなものでしょうか、わかりますか?」 ひとりの男が自慢気に手を上げて答えた。 「相手の女を征服して、自分のものにした気持ちでした」 自分の体験談を話しているのだ。 みんなはどっと笑った。 「それで?」 マンスールは更に続けるよう促した。 「自分のものになるまでは征服する気持ちが強いから、相手に対して暴力的な気持ちでしたが、今こそ征服出来ると確信したら、暴力的なものから、相手を愛しいという気持ちに変化して、髪を撫でてやったり、顔を撫でてやったりしました」 みんな興味津々で聞いていた。 「それで、裸体を撫でてはやらなかったのですか?」 その男は思いだすように顔を上に向けてしばらく考えていたが、はっとしたように口を開いた。 「いえ、裸の体は絶対に触れませんでした」 「どうしてですか?」 マンスールは訊いた。 再び、男は天井を向きながら、今度は長い間考えていたが、わからないらしい。 「わかりません」と答えた。 「その理由をあなたは知らない。だがあなたは無意識にそうしている。そうです、あなたは相手の娘の肉体は首から下だと思っている。一方顔は肉体とは思っていない。心だと思っているのです。自分が汚した体であるのに、汚くて触ることが出来ない心境なのです。しかし自分に汚されることを敢えて受け入れた心に愛しく感じ、心を所有できたと思っているからです」 マンスールの話を聞いていたモハマッドは、『なるほど、そう言えばそうだ』と感心していた。 「だが、処女を奪われた娘は、心を奪われたとは思っていない。肉体も相手の所有物にされたとも思っていない。今日のあなた方がそう思ったのと同じように」 みんな納得したような気持ちになってきた。 「今日、あなた方は、ハムシーンに処女を奪われた娘であったのです。少なくともハムシーンはそう思っています。ハムシーンは自然を代表していると考えたらいいでしょう。わたしの言っていることが解りますか?」 マンスールにそう、訊かれても、まだ解っていない。 「ハムシーンの心を知れば、あなた方は死を乗り越えることが出来ます」 モハマッドは『なるほど。その通りだ』と思った。 人間だけが、死ぬという厳然たる事実を知っている。 この事実を知ったということは、二つの選択肢があるとマンスールは言う。 死と正面から堂々と対面する生き方。 そうすると、死に対峙する勇気を奮うことで、生きる勇気も奮うことができるようになる。 死から徹底的に目を逸らす生き方。 そうすると、如何なる死に方をしても、それは自殺行為と変わらなく、結局は死のみならず、生からも逃避することになる。 動物にも、死ぬという事実は厳然とあるが、死ぬということを知らない。 彼らには選択肢が無い。 従って、生きる上においての価値観の意識が無い。 そうすると、他愛のないことでも命を張るし、重要なことでも命を放り投げることがある。 それは、この二つの選択肢を知らないからであって、それはまさしく死に対する無知から来ている。 だが、その行為は荘厳なものだ。 一度、死を知った限り、人間は動物のような生き方は出来ない。 その中で死の恐怖を克服するには、この二つの選択肢を超えた、死に対する熟知の世界に入って行くしかない。 完璧な戦士、つまり死のマスターになるには、死に対する熟知の世界に入って行くことが要求され、欧米世界の近代兵器で以ってしても、死のマスターである完璧な戦士には叶わない。 ベトナム戦争でアメリカ軍が近代兵器でいくらベトコンを攻撃しても、気がおかしくなるのはアメリカ兵士の方だった。 ベトナム戦争で実質完敗したアメリカは徴兵制度を廃止した。 アメリカ軍兵士の精神的打撃の大きさに驚愕したからだ。 昔の戦士は直接肉体同士の衝突であったから、死のマスターにならないと闘う心になれない。 しかし、今の戦士は近代兵器のボタンを押すだけのゲームだから、兵士であっても戦士ではない。 アメリカや、かつてのソ連のような圧倒的近代兵器を以ってしても、ゲリラ戦によってベトナム、アフガニスタンで完敗し、挙句の果てに、ソ連は国まで崩壊した。 死のマスターの戦士相手に戦をするためには、こちらも死のマスターになるしかない。 モハマッドのアラブ連合軍が、シナイ半島で近代兵器のイスラエルに虐殺されたのは、アラブ連合軍が戦士でなかったからだ。 時代遅れの兵器を持った兵士と、近代兵器を持った兵士の戦いであった。 モハマッドがテロリストと言っても、マンスールは聖戦(ジハード)の戦士だと言い張った理由はここにあったのだ。 |