第八章  再誕

「ここはトリポリでもなく、アレキサンドリアでもなく、カイロでもない・・・ウルという世界最古の町なんだ」
モハマッドは漸く正気に戻った。
人間はその生を終える間際に、一生の出来事を走馬灯のように思い浮かべる。
母親の子宮で受精した新しい生命が、十月十日の間に地球上の全有機生命体、つまり、真核細胞生物から魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、そして哺乳類の猿類、霊長類を経て人類の全歴史を走馬灯のように再現する。
死においても同じメカニズムが働き、死の一瞬に十月十日に圧縮された再現フィルムが回されるのだ。
地球の歴史46億年の中で、無機生命体は36億年の歴史を誇り、有機生命体の歴史は8億年の歴史を誇るのに対し、人類の歴史はたった50万年であり、それを十月十日で再現しているわけだ。
妊娠期間とは、まさに種の歴史の圧縮された期間なのであり、死に際しての自己の一生の再現は、妊娠期間と合致する。
モハマッドは生きながらにして死の擬似体験をしていたのだ。
イエス・キリストの復活(resurrection)とは、まさに、死の擬似体験に他ならない。
十字架とは、水平世界と垂直世界が交差することを象徴する、つまり、量的物差しである実時間世界と、質的物差しである虚時間世界が交差することを象徴しているのだ。
凡夫は量的物差しである実時間世界に拘泥する結果、過去・現在・未来に想いを馳せて悩む。
現在とは、過去の一部であり未来の一部でもあり、決して、『今、ここ』ではない。
質的物差しの虚時間世界とは、『今、ここ』の世界である。
復活(resurrection)とは、過去・現在・未来に想いを馳せる生き方から、『今、ここ』を生き切る生き方に変貌することに他ならず、まさに、再誕(reborn)と言い換えてもいいだろう。
変身(transformation)を経て変貌(transfiguration)に到達することを悟りと言うわけだ。
悟りとは、決して形而上学的(metaphysical)ではなく、形而下学的(physical)な問題であるから(figuration)なのである。
モハマッド・ハッサンもイエス・キリストと同じように再誕したのである。
しかも、全人類の発祥の地・ウルで。
大工ヨハネとマリアの息子イマヌエルからイエス・キリストに変貌(transfiguration)したのもウルの町であった。
旧約聖書は紀元前2、3世紀頃に死海の傍で発見されたというのが通説だが、実はサウジアラビアの商業都市ジェッダで発見されたのだ。
イスラム教の開祖モハマッドが生まれたメディナはジェッダのすぐ傍で、アラーの神から啓示を受けてイスラム教の聖典コーランを書いたメッカも、ジェッダのすぐ傍である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は兄弟宗教であるとされる所以は、新約聖書をバイブルとするキリスト教も、コーランをバイブルとするイスラム教も、原典は旧約聖書にあり、両開祖ともジェッダで旧約聖書と邂逅したからに他ならず、延いては、人類発祥の地・ウルに行ったに違いない。
イエルサレムで垂訓を始めたイエスは28才の時であり、それ以前の彼の足取りは新約聖書では明確にされていない。
インドにまで渡り、釈迦の教えに邂逅したという伝説もあるが、実はウルの町にやって来たのである。
地球の二つの臍、日本とカナン。
地球が楕円になる前の真円の時の唯一の臍がウルであったのだ。
“Açu(日の出る国)と“Ereb(日の没する国)”の前には、日の出る国も日の没する国も同じウルだったのだ。
イスラム教徒の最も大事な行事である一日17回のお祈りは、聖地メッカに向かってするが、実は唯一の臍であるウルに向かってするのが真実なのである。