第九章  原理主義の誕生

イスラム世界におけるイラン革命は、キリスト教世界における宗教改革(The Reformation)と同格に位置付けられるほどの大きな事件だった。
1517年。
マルチンルターは95条の論題を提出して、フィレンツェのメディチ家出身のレオ教皇が、贖宥状免罪符販売をドイツで推進しようとしたことを非難攻撃し、“人は功績によらず、信仰のみによって救われる”と主張し、聖書を正しい信仰の唯一の基礎とする立場から教皇権を否認して、ローマカトリック教会の弊害に対して改革を企て、これから分離してプロテスタント教会を立てた。
1978年。
秘密警察SAVAKの監視を受けながら、パリでひっそりと暮らしていたアヤトラ・ルホラー・ホメイニの住まいに、一人の男が訪ねてきた。
「わたしは、イラクのシーア派ムラーのマンスール・アル・ヒラジと申します」
八十才の誕生日を間近に控えたホメイニにとって、やれシーア派とか、やれスンニー派とか目鯨を立てるような心境を疾うに超えていたが、「マンスール・アル・ヒラジ」の名前を聞いた途端に、かつて、コムのモスクで人々を導いていた頃のことを思い出していた。
コムという町は首都テヘランの南100kmにある聖都で、イスラム教シーア派の本山がある。
コムの大伽藍バズラスム=ティム・モスクで幼少の頃からコーランを読誦していた彼にとって、マンスール・アル・ヒラジの名はイスラム教の開祖モハマッド以上のものであった。
まだ子供の彼が、マンスール・アル・ヒラジがどのようにして十字架に架けられたのかをよく聞いたものだ。
"ひとりのイスラム教徒がコーランを熟読して、読誦出来るほどになっていた。
突然、彼は、アラーの神は唯一神などではなく、誰の中にもいると悟った。
そして、みんなの前で、『Anal Hak(アナル・ハク)!』と叫んだ。
『我は真理。我は神!』という意味だ。
インドのゴータマ・シッダルタが、『すべての人間の中に神性がある』と悟ったのと同じである。
ところが、イスラム教の教義では、アラーの神だけが唯一の神である。
イスラム教徒は彼がアラーの神を冒涜したと思った。
イエスは『我は神の子』と言って、『イエスは律法を犯した』と当時の権力者であるパリサイ人律法学者によって十字架に架けられた。
イスラム教徒たちも、アラーの神を冒涜したと怒り、マンスールをイエスのように十字架に架けた。
そしてイエスの磔刑も霞んでしまうばかりの拷問を加えた。
まず十字架に架けたマンスールの両足を切り落した。
それでも、彼は『Anal Hak(アナル・ハク)!』と叫び、歓喜の想いで、笑っていた。
今度は、彼の手を切り落した。
それでも彼は生きていた。そして『Anal Hak(アナル・ハク)!』と依然叫んで笑っていた。
更に、舌を切り取り、目をくり抜いても、彼は生きていた。
そして、心の中で、『Anal Hak(アナル・ハク)!』と叫び、笑っていた。
そして最後に首を切り落された。
イエスの磔刑どころではない、凄まじい拷問を受けても、彼は自身の神を信じて至福の境地にいた。"
アヤトラ・ルホラー・ホメイニは1900年5月17日、イラン中部の町ホメインで生まれ、両親を幼少時に亡くし、敬虔なイスラム教徒の伯母に育てられ、高位聖職者の弟子となり、コムに移った。
1905年。
第二次産業革命の嵐の吹き荒ぶ中、アメリカのライト兄弟が飛行機を発明したのがきっかけで、それまでの戦争形態が激変し、石油が重要資源となりつつあった。
そんな中、第一次世界大戦勃発の直前、イランの石油を狙って欧米列強諸国が利権獲得に動き出した。
イランのカージャール王朝は彼らの食い物にされ、国家としての権威がなくなっていった。
1921年2月21日、大英帝国の後押しで、コサック部隊の指揮官・レザー・ハーン大佐がクーデターを起こし、成功させた。
新しいイラン政府が出来たが、クーデター後もハーンは軍人に居座っていたため、新政府は安定しなかった。
そんな中、レザー・ハーンは軍司令官に就任し、軍の強化を推し進めた。
1925年10月、レザー・ハーン司令官は、軍の力で政府に圧力をかけ、皇帝を退位させ、同年12月、自身が皇帝となりシャー・レザー・ハーン王朝が起こった。 
シャー・レザー・ハーンはイランの改革に乗り出し、先ず軍隊の近代化を推し進める。
しかし、この近代化が伝統的な宗教の権威を脅かすことになる。
これが後のイスラム革命につながる伏線となった。
イランは第二次世界大戦で中立を宣言していたにも拘わらず、ドイツと同盟を結んだため、大英帝国とソ連に侵攻され、シャー・レザー・ハーンは南アフリカに亡命することになる。
シャー・レザー・ハーンの後を継いだのは若干22歳の息子・モハマッド・レザー・パーレビだった。
パーレビ王朝の誕生である。
新国王に突然なったモハマッドに執政はとうてい無理であったため、議会のモハマッド・モサデクが政治を担当することになった。
モサデク首相は石油会社の国有化を推し進めようとしたが、パーレビ国王はこれに反対した。
モサデク首相はカージャール王朝の血を引いていたため、パーレビ国王と悉く対立する。
パーレビ国王の反対を無視して、石油産業の国有化法案が議会を通ると、大英帝国が経済圧力をかけてきた。
大英帝国自身が利権を取るためだ。
その結果、国有化による石油利益は減少し、モサデク首相は国民の支持を失っていった。
さらに大英帝国は、イランをもう一押しするため、アメリカを誘ってモサデク政権の転覆を図る。
石油を狙っての一押しだ。
1953年8月15日、パーレビ国王はモサデク首相を解任しようとするが、この計画は事前に漏れてしまい、逆に国王の身に危険が迫る。
アメリカのCIAはこれを見て、8月19日、民衆にデモを起させ、パーレビ国王派の軍隊がクーデターを起こし、政権を国王の手に戻してしまう。
アメリカの援助で権威を回復したシャー・パーレビは、以後独裁政治を行なうことになる。
アメリカの諜報機関CIAと、イスラエルの秘密諜報組織MOSSADの援助で、秘密警察SAVAKを設立し、反体制の人物の監視を始めた。
ところが、ソ連との冷戦で辛酸を舐めさせられているアメリカは、第三世界にひたひたと迫ってくる共産主義革命に対抗するため、イランに対して民主化の圧力を掛けざるを得なくなっていく。
1963年1月、独裁政治を行なっているパーレビ国王は、アメリカの要請で婦人参政権などの改革案を国民に問いこれを立法化するが、選挙はポーズだけであった。
これに対して国民が不信感を募らせた。
1963年6月3日、イスラム法学者アヤトラ・ルホラー・ホメイニが、パーレビ国王による西欧的な近代化政策「白色革命」に反対する運動を指導し、先の選挙を糾弾する演説を行なった。
彼は次の日に逮捕され、これに怒った国民が6月5日暴動を起こした。
この暴動は全土で発生し3日間続く。
パーレビ国王は国軍を動員し武力を持ってこれを鎮圧した。
ホメイニは釈放されたが、再び、パーレビ国王を糾弾する演説を行い、1964年11月4日再逮捕され、ついにトルコへ国外追放となった。
その後の1965年10月、ホメイニはイラク・シーア派の聖地ナジャフにある神学校行きの許可を受け、イスラム法の更なる勉強をする。
ホメイニがイラクで13年も暮している間に、イランではまさにシャー・パーレビの独裁政治が専横を極めていた。
そして、国民は反体制のデモを各地で繰り広げるようになっていった。
ホメイニはまたしても、パーレビ国王を糾弾する。
パーレビ国王が新聞にホメイニを誹謗する記事を発表すると、今度は国民が暴動を起こす。
それまでホメイニを擁護していたイラクのフセイン大統領は、イラク革命を演出した自由将校団の同胞を裏切り、アメリカ側につくイランのパーレビ国王に気を遣って、反体制の演説を行なうホメイニに国外退去を命じ、ホメイニはフランスに亡命した。
ホメイニを国外追放したのが、イラクのフセイン大統領のケチの付きはじめになり、その後、イラン・イラク戦争の泥沼化、クエート侵攻による湾岸戦争の敗退、そしてイラク戦争の敗北による絞首刑の道へと歩むことになる。
1978年。
パーレビ国王によるホメイニを中傷する記事が掲載されると、コムで抗議デモが発生し、それが各地への暴動と発展した。
特に、トルコ国境の町・タブリズで起きた暴動がストライキにまで及んだことが、パーレビ王朝の独裁体制に楔を打ち込んだ。
タブリズにあったルーマニアのトラクター・メーカーとの合弁企業がストライキ騒動の発端になったのだ。
カスピ海沿岸に拡がる米作地帯の機械化を支えていたのが、このトラクター工場だったからである。
「飴と鞭」の政策を展開していたパーレビ国王は、潤沢なオイルダラーを使って、カスピ海沿岸の農民に「飴」を与えていた。
高価なトラクターを購入するのに、1割の頭金さえあれば、残りの9割は政府、つまり、パーレビ国王が補助してくれるというわけだから、農民は先を争ってトラクターを買う。
ところが、トラクター工場がストライキのため、機械が農民の手に渡らない。
季節を失ったら1年の収穫がゼロになると危機感を覚えた農民が、更に暴動に加わったのである。
1979年1月16日、遂に国家機能が麻痺し、国外から発せられるホメイニの演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、パーレビ国王は時の首相シャープール・バフティヤールの進言で国外に脱出した。
同年2月1日、パーレビ国王と入れ替わりにホメイニが帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命した。
ホメイニは国家元首でもないのに勝手に任命したのだ。
首相が2人という事態になり、イランは真二つに割れてしまい、革命派と国王派が戦闘に突入する。
同年2月11日、国軍が中立を宣言し、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに国王派は消滅する。
1979年4月1日、首都テヘランのメーラバード国際空港に終結した100万人の民衆によって、イラン・イスラム共和国が成立し、ホメイニは最高指導者に就任した。
イラン・イスラム革命の成立である。
しかし、イスラム革命はこれだけで終わらなかった。
ホメイニは革命の輸出を唱え、周辺イスラム諸国を震撼させた。
この後、スーダンやアルジェリアでイスラム革命が発生する。
イスラム原理主義の誕生である。