通り道に 同じ石が 同じところに いつも ある

はじめて 見たときは 足で蹴った

翌日も 見たときは 足で踏んだ

その次の日も 見たときは 手で投げた

その次の次の日も 見たときは 手で持った

その次の次の次の日も 見たときは 優しく 声をかけた

そしたら 石があったかく 感じて 反応した

そのときまで 石は あなたを物と 思っていた

そのときまで あなたも 石を物と思っていた

そのあと、お互い 物と思えなくなってしまった

ある日 通り道に 同じ石がいた

おはよう と どちらもあいさつをした



物質と非物質

人間の体は不思議なメカニズムを持っている。その働きは二つの面を持っている。
あなたの意識が外に向くと、五感を通して、あなたが出会うものは物質だけです。
あなたの意識が内に向くと、根を通して、あなたが出会うものは非物質だけです。
しかし、実体には、物質や非物質という区分けはない。それは、一つのものです。
肉体、エーテル体、アストラル体……これらはみな宇宙そのものであって、表象の仕方が違うだけです。
ミクロの宇宙に行けば、それは空(NOTHING)になるし、マクロの世界に行けば宇宙すべて(EVRYTHING)になる。
有る、すなわち、無いという、逆も真なりの世界です。
ふつう、人間は物をみるとき、目で見ているというが、目が見ているのではない。目は単に開けているだけでそのうしろに見ている者がいる。目を通して網膜というスクリーンに映る像を見ている観衆がいる。目が見ていないと言えるのは、目をつぶっても、人間は夢やイメージを見ている。たとえば夢は第三の目がスクリーンになってそれを見ている者がいる。イメージはハートというスクリーンに映っているものを見ている者がいる。
目を通して見ている物質はきめ(メッシュ)が粗い。第三の目を通して見ている物は非物質で、物質よりはきめ(メッシュ)は細かい。ハートを通して見ている物は同じ非物質でもきめ(メッシュ)がもっと細かい。
外の物(物質)であろうと、内の物(非物質)であろうと、その物を見ているのは、本当の自分でその自分は根を通じて全体(宇宙意識)とつながっている意識だということ。それは普段、意識している自分とは違うということ。
そして、その本当の自分には直接アプローチ出来ないということ、間接的にしかアプローチ出来ない。そしてその間接的にアプローチするには物として見たらアプローチ出来ない。人として見ないとアプローチ出来ない。
そして、物質であっても、非物質であっても、掴みにいったら絶対得られないといくこと。すべての結果は物質・非物質を超えたところに存在する。
だから、結果を見ずに、ただ、見るという行為になりきること。
たとへば、あなたが、美しい女性に会ったとしましょう。美しいと思う。そのとき、あなたは二つの選択が出来る。
一つは、美しい、みんなもそう思っているだろう、それなら、はやく自分のものにしないと、誰かが持ち去っていく。そしてつかみにいく。そのとき、その美しい女性は物質的存在になる。(所有物になる)
もう一つは、美しい、触れると壊れそうなぐらい美しい。だからつかみにいかずにいとおしく、眺めていよう。この美しさはみんなのものだ。そのとき、その美しい女性は非物質・人になる。(所有物でない)
ある哲学者が、他人は地獄だ、と言った。
他人を物質として見たら、彼のいうことは正しい。
人間には、すべてを物(物質)と見ることしか出来ない人間と、すべてを人格ある人(非物質)として見る人間とがいる。そういう人間は犬でも木でも石でも人格ある人として見る。
だからそういう人間は石に対しても話しかける。犬にとおなじように。
すべてを物と見ることしか出来ない人間は、恋人さえ物と見ている。自分の恋人が美しいと自慢げに、人に見せたがる人間がもし自分の恋人だったら、すぐに別れたほうがいい。いずれ、ごみくずのように捨てられるから。
政治家、高級官僚をみればよく分かる。彼等の夫婦はお互いに物どうしだ。ちょっと前に2−3ケ月ぐらいでやめさせられた首相がいたが、人を物扱いしたから自分も物扱いされてポイとすてられた。大蔵、証券局長していた官僚が愛人をもの扱いした結果すべてを棒にふった。侍の時代の政略結婚のほうがまだましだ。なぜなら、彼等は恋をすることを知らなかったから。
こころの、巧妙な狡猾さであるから、よく騙される。自分自身も騙される。
結局、自分を大事にすることです。自分を愛しく思うことです。常に自分をやさしく見つめることです。それが出来る人だけが他の人にも優しく出来る。
すべてのものを物質としか見ることしか出来ない人、すべてのものを非物質として見る人。さあ、あなたはどちらだろうか。