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怒り 愛する人に あなたは怒る 愛していない人に あなたは怒らない 大切な人に あなたは怒る 大切でない人に あなたは怒らない 大事なものに あなたは怒る 大事でないものに あなたは怒らない 怒りの対象は 人 物は 怒りの対象に ならない あなたにとって それは 人 ? 物? 人には発散できる 物には発散できない 発散すれば 必ず 発散で 跳ね返ってくる それが 生あるもの 抑圧には 何も 跳ね返ってこない それは 死んだもの 発散と抑圧 喜怒哀楽で伝えたかったことは、人間に去来する感情を一般的に表現する方法には、ひとつは、その怒りをそのまま相手にぶつけて発散する方法。もうひとつは、その怒りを自分にぶつけて、外には発散しないで抑圧する方法のふたつがあるということでした。 しかし、その発散と抑圧の本質は、コインの表と裏だけで同じコインに変わりはない。 抑圧は発散を一時的に止めて、貯めておくだけで、結局は発散せずにはいられなくなる。 発散も抑圧も、相手に罵声を浴びせることに変りはない。抑圧は、罵声を浴びせるかわりに、親切なポーズをとりながらうしろから不意討ちすること。対象はやはり相手です。自分を忘れてしまっていることに変わりはない。 だが、こういった感情が起きることはいい機会だから見逃してはいけない。こういった感情が起きたときは、あなたはホットになっている。だからこういった感情がどこからやってきたのか、どの道を通ってやってきたのかを発見するチャンスです。ホットな感情は発見しやすい。クールな感情は発見するのが困難です。だから、こういった感情が起きたら、その感情に同化せず利用すれば(自己客観視すれば)、どこからやってきたのか、そのルーツ(根)を発見出来る。 これらの感情は根からやってきたエネルギーの変位した姿なのです。ときには怒りというメカニズムのチヤンネルを通ってきた姿、ときにはセックスというチヤンネルを通ってきた姿、ときには喜びというチヤンネルを通ってきた姿、しかし根にあるときのエネルギーはどんな姿もしていない。 たとえば、電気はエネルギーだが姿はない。しかしその姿のない電気が電球にいけば、光という姿あるものに変える。 感情も同じで、根にある姿のないエネルギーが、怒りというエネルギーに変位するとそのエネルギーは非常に暴力的なものになります。だが同じ根にあるエネルギーをセックスというエネルギーに変位すると非暴力的になる。戦う前の兵士をより暴力的にしておくためにセックスを禁ずるのはセックスエネルギーが非暴力的だから。そのかわり、戦いが終わったら、勝った側の兵士は敗れた側に対して、略奪、強姦をすることを司令官は容認するのはセックスエネルギーを抑圧していたからに他ならない。だから戦ったあとに、性欲が強烈に襲ってくる。そしてエネルギーを放出するとリラックスする。すべてこのメカニズムだから西欧の心理学者は抑圧するより、発散するほうがましだと言っている。発散したほうが非暴力的だから。西欧の心理学者はより科学的なので、人間のこういった心のメカニズムに対して肯定的だった。 そして、そういった人間をノーマルだとしている。ノーマルとは平均的だということ。民主主義と同じで多数派の人たちをノーマルと呼ぶ。真理からかけ離れていても多数決で決まればノーマル。真理を言っていても少数意見ならアブノーマル。それが現代の世界の姿です。このメカニズムが働かなくなった人を気が狂った人だと決めつける。 しかし、気が狂った人も気が狂っていない人も質は同じで違いは程度の差だけです。どんな人も気が狂う可能性を持っている。本来人間は生まれて、親から条件づけをされる毎に分裂気味になっていく。 動物として肉体即自分という認識レベルと、存在そのものの認識レベルとの距離が問題なのです。両側はHappyな世界です。あいだだけがピンと張ったロープの上にいる綱渡りの緊張の連続でリラックスしている暇はない。しかもその緊張は無意識の緊張だから非常に疲れる。意識して構えていないから。そして突然ロープがゆれる。みんなそういう状態で生きている。(特にこの状態にある、西欧と東洋の狭間にいる現在の日本は完全に精神分裂症になっている) まさに、地獄絵の状態です。 だがその綱渡りも意識してやると、結構楽しいものになる。バランス棒を持って、綱が揺れることを先に予測して構えてやると結構楽しい。ボクシングでもカウンターパンチはこたえるが構えて打たれたパンチは耐えることが出来る。 だから、どんなことでも意識してすることが肝心です。極端にいえば、意識して人殺しをしたらHappy。無意識でやるから地獄が待っている。無意識で(すなわち悪気がなくて)やることは、たとえそれが人を喜ばせることでも罪であり、一方意識して人を傷つけるならそれは罪ではない。ただこの我々が生きている世界では、その罪を原罪としてとらずに法律としてとらえることによって初めて罰の概念が生まれる。本当の自分を認識できる世界で生きる人には罰の概念はない。無意識で生きることが一番の罪だということを認識すること。 |