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ルノアールかピカソか あなたは どんなタイプが 好み 目の美しい 人 口もとのさわやかな 人 バストの大きな 人 背の高い 人 肩幅のひろい 人 こんな 好みの 人は ルノアール派 こんなタイプの 人は どうかね どこも かしこも たいしたことはない だけど なにか 全体の雰囲気が 素敵な 人 こんなタイプの 人は ピカソ派 ピカソが描く 人は 各部分が 醜い ルノアールが描く 人は すべての部分が 美しい それなのに なぜ ピカソが 評価されるか ピカソは 部分の醜さを露す そして 全体の美しさを表す それが 究極の美だ 全体を見つめる あなたは、いつも何かを見ている時、その部分しか見ていないことに、そしてその部分が次から次へと移っていっていることに気づいたことがあるでしょうか。 たとえば、美しい女性と出会ったら、あなたはどうするかよく考えてみなさい。 あなたの美的基準が顔にあれば、まず、あなたは、その人の顔を見るでしょう。そして目、鼻、口と移っていく。 あなたの美的基準が足の美しさにあれば、まず足を見るでしょう。そして足首、ふとももと移っていくでしょう。 あなたの美的基準が乳房のかたちにあれば、まず胸を見るでしょう。そして大きさ、ふくらみかた、と移っていくでしょう。 決してその女性の全体像を見ないでしょう。 だから、厳密にいえばその女性が美しいのではなく、その女性のある部分が気に入っただけなのです。その部分が感覚として自分に快感を与えてくれるからです。しかも、そのあとの楽しみを期待して。ほとんど可能性が無くても。 もうひとつ、その女性がどんな服を着ているかを見ても、その外観全体を見ないでしょう。 その服がシヤネルかエルメスか、それともバーゲン物かを先ず見る。シヤネルのスーツを着て、エルメスのスカーフをつけていると美しい。バーゲンのスーツだと醜い。 その美しい女性が自分の物になったら、他の人たちに対して精神的優越感(快感)を与えてくれるから。要は物なのです。 だが、通りすがりの女性ですから、まず、自分の物になる可能性は少ない。ですから、通り過ぎたあと、すぐに忘れる。 しかし、その女性の全体像を見て(部分ではなく)、そして美しいと感じたら、あなたは通り過ぎたあとも決して忘れない。そのときその女性は物ではない。所有物ではない。 自分と対等の人格です。全体を見たら、部分は見えない。部分は物質ですが、全体は物質ではない。非物質です。精神です。なぜなら、動くものは物質ですが、全体を見つめていたら、各部分は消えてしまうから、移る(動く)ことは出来ない。止まったままです。目が動かないと思考が働かない。思考が働かないのに、美しいと思うのは、自分の体全体で感じているからです。だから相手も同じ人格です。ユニークだということです。代替できるものは無い。 子供に、欲しがっているおもちゃを与えても、一時間もたたない内に、あきて、どこかに放り捨てる。これは物だからです。子供にとってはすべてが物です。だから子供は残酷なことを平気でやる。思いやりがない。そういう点では、子供はエンジエルの象徴ですが、本当は悪魔の象徴です。このことをよく知っておくことです。それは無知から来ている。だから罪にはならない。何も知らないから仕方ない。だが、その結果多くの子供の残酷な犯罪が増えている。これからも増えるでしょう。その原因は無知です。すべての犯罪の根源は無知から来る。 だから、子供のほうが、大人(本当の)よりも、はるかに罪を犯す確率は高い。 だが、現代は子供も大人もみな無知な子供のようなものです。それはすべてのものを物としか見ることができなくなってしまったからです。 どんなものを見る場合でも、全体を見つめること。決して部分を見ないこと。そうすればたとえ、それが石であっても、愛情を感じることが出来る。その感情が幸福感です。 |