コンサートとカラオケ

あなたの親しい歌手がいる

コンサートの会場で 見る その歌手

コンサートの会場で 聞く あなた

そこには 聞く者と 聞かれる者 がいる

カラオケで 見る その歌手

カラオケで 聞く あなた

そこには 聞く者も 聞かれる者も いない

いるのは ただ 歌う あなたと その歌手が 対峙している



あなたは何も聞いていない

あなたは何も見ていないでは本当に見るということは、どういうことかを説明しました。
同じことが聞くということにも言えます。
ベートーベンは耳が聞こえなくなってから、第九を作曲しました。初演のとき、彼は指揮をとれず、舞台でひとり沈黙の世界にいた。聴衆に背を向けて楽団に向かって座っていました。
彼は耳では聞こえていない。しかし彼は聞いている、楽団のひとり、ひとりの演奏家の一挙手一投足で、如何なる微妙な音をも逃さず聞いている。
だから聞くということは、耳が聞いているのではない。耳を通して聞いている者がいる。
ベートーベンは耳では聞いていないが、聞いている。意識して、ハートで聞いている。
あなたは耳では聞こえているが、無意識だから聞いていない。そこに聞く者がいない。
本当に見るときは、一瞥だけだということが理解できますか。
あなたはまばたきなしで5分間目を開けていられますか。無理です。だからあなたが見ているのはいつも一瞥だけなのです。ただそれが間断なく続けられるから、ずっと見ていると思っているだけです。
だから本当に見るチャンスは一瞥だけ。だがそれをもあなたは逃している。だから、あなたは何も見ていない。
同じように聞くことも、一聞だけ。外から入ってくる音の波動を耳の鼓膜が受けて、鼓膜がまた振動して音として伝える。鼓膜も目のまばたきと同じで聞きっぱなしは出来ない。
ただ間断なく続けられるから、ずっと聞いていると思っているだけです。
少し難しいかも知れないが、波には縦波と横波がある。横波は連続的です。アナログ的です。
縦波は非連続的です。デジタル的です。量子学では宇宙のすべては波動だという。
あなたの肉体も心もみな波動です、しかもそれも縦波、デジタル的です、横波ではない、アナログ的ではない。
水面のさざなみが横波です。音も横波です。横波は途中で障害物(物体)があると三次元だからそこで止まる。縦波は四次元だから障害物があっても通っていく。
だから時空の世界である宇宙は四次元の世界なのです。すべて縦波の世界です。
鼓膜にあたる音は三次元的横波です。目に入ってくる光景も横波です。横波は三次元的だから三次元世界で、肉体で生きているものには波長が合って認識できる。しかしそれは、目の網膜で認識しています。耳の鼓膜で認識しています。その光景や音がハートで感じる(同調する)レベルでは縦波(四次元)に変位します。
だから三次元的に生きている人(唯物的な人)には絵も音楽もただの光景、ただの音としか認識できません。
それは非常に無機的です。
ゴッホや、セザンヌやベートーベンはハートで見、ハートで聞いている。非常に有機的です。
人間の体は有機物でできています。植物もそうです。鉱物も本質的には有機物です。だから心がある。
無機物には心・魂はない。
それなのに、人間は無機的に生きている。ロボットと一緒で機械的になり過ぎている。
だから、鼓膜を通って耳に入ってきた音(三次元的、無機的横波)を音楽(四次元的、有機的縦波)に変位することが大事なのです。心で見、心で聞くということです。だからベートベンは心で聞いた音を曲に変位することが出来る、耳が聞こえなくても作曲できる。
聞く聴衆もハートで聞くから感動する。
そして、ここからが非常に重要なことですが、ハートで聞ける音(言葉)は非連続的縦波だから、"ささやき"だということを良く理解することです。その"ささやき"(すなわち連続的横波であるはなしではない)を感じることが出来ると、目の動きが止まる。まばたきがなくなる。
はなしという音はアナログ的だから論理的です。"ささやき"という音は非論理的です。デジタル的だから。詩や音楽は非論理的です。だけど真理を伝える力がある。だから人に感動を与える。ハートに伝わる。そしてそれが根への通過点になる。
感動的な言葉(ささやき)を聞いて何かを感じたとき、まばたきを止めること。コンサートで素晴らしい音楽を聞いて感動したとき、意識してまばたきをしないようにすること。
そうすると、普段の執着するあなたが消え、まったく自由自在のあなたがそこに突然現れる。