馬の背

山が連なる 峰には 馬の背がある

上がっては 下がる 繰り返し

その両側に 谷がある

馬の背は 谷と谷とのあいだの 山の頂上

谷は 山の 下ったところ

山は 谷の 上ったところ

そこに交差する 馬の背がある

その 馬の背にも 上がり下がりがある

だが それは 山や谷とは違う

それが 人の通る道

山や谷の中は 決して 人は通れない

馬の背だけが 人の通る道



楽曲の背骨

どんな曲でも、必ずバックボーンになる音があります。この音はあらゆるメロディーの混成したものです。
メロディーは波です。少し難しいですが、三角関数でいうSin(サイン)、Cos(コサイン) カーブです。山と谷が交互に繰り返されるあのカーブです。
旋律を構成する音符の頭の部分を線で引いていくと、山と谷のカーブ、すなわち三角関数の曲線です。だから、曲(キョク)というのです。この曲線は必ず山と谷がある。いわゆる二元論がベースになっている。山があるから谷がある。山のない谷なんて有り得ないし、谷のない山なんて有り得ない。そしてこの曲線は何種類かあって、それらが和音になったものが楽曲です。そしてこの楽曲のバックボーンになっているのが、旋律です。この旋律が楽曲の背骨です。旋律のない曲はない。旋律がなければ、山も谷もない。そんなものは曲にならない。
だがこのバックボーンになる音は楽曲になると消されて聞こえない。楽曲の音だけが耳に聞こえる。だがバックボーンになる旋律なくして、楽曲は存在しない。だが楽曲は実体ではなく幻想です。ですが幻想はいつでも美しい。実体はシンプルです。
実体のあるものは表れず、実体のないものが表れる。
真理は語ることができない、語れるものは真理でない。と同じです。
曲も楽曲として表現されているものの真ん中に真実の音がある。それを知るには、楽曲の背骨を認識することが必要です。
三角関数でもいろいろな条件で山、谷の高さ(振幅)、長さ(周期)が変わる。だが山と谷が必ず交互になる。山から山、谷から谷なんて無意味です。この形は普遍です。この旋律を音のない音といいます。
どんな曲でもいいが、オーケストラで、ある曲を演奏する。それは旋律の混成されたものです。高い音、低い音それぞれの単音が同調して和音となる。その和音が聞く者のこころに心地よく響く。そのバックボーンにあるのは,シンプルな旋律です。この旋律は頭からは湧いて来ない。自分と音の世界とが融合しない限り湧いてこない。だから作曲家はテクニシャンではない。詩人とおなじで感じないかぎり、ハートに響かないかぎり、曲は書けない。
たとえ、あなたが音楽家でなくても、聴衆であっても、聞こえてくる、曲の真ん中にある旋律を心で聞くことができたら、偏在するあなたがそこに現れる。
素晴らしい楽曲は、みなこのバックボーンになる旋律が聴衆の心を共鳴させる。
だから、偏在するあなたを発見する一つの方法がその素晴らしい楽曲と出会うことです。
だがそのような楽曲は非常に少ない。だから、自分がバックボーンになる音(旋律)と共鳴することです。
その方法は、ある曲を聞いているとき、その曲と一体になることです。一体になるためには体全体で聞くことです。体全体で聞くということは、その曲のバイブレーションに自分の体をあわせて、なすがままに揺れることです。そしてその曲の小節が休止符に入ったとき、あなたは、そこに普段の自分と普遍の自分との合間を感じる。そして普遍の自分の存在を知る。