読書好き

読書好きな人に ふたつのタイプがいる

本が好きな人

本を読むのが好きな人

政治家は 本が好きな人

事務所に行ってみるといい

高価な本が ところせましと 飾ってある

本を読むのが好きな人にも タイプがある

本を読むが そのあと 飾るタイプ

本を読むと その本をすてるか 人にあげるタイプ

本当に 読書好きな人は 最後のタイプ

なぜなら 本を読んだ後に 体験が必要だということを知っているから

体験するとき 本は 邪魔になることを 知っている



知識は、何も知らないということを知るためのたですの道具

前に科学と宗教は答えを出すいう点では同じベクトルだと言いました。
フィロソフィーやイデオロギーとは逆だと言いました。
ここでは、その科学と宗教をもう少し掘り起してみましょう。
科学も宗教もフィロソフィーやイデオロギーと違って答えを出す、しかしその答えが解決できる答えと解決できない答えとの違いがあります。
解決するとは、一部解決なんてない、解決するということは全面解決しかないということを良く理解しておかなければなりません。
一部解決ということは妥協していることです。解決に妥協は一切ない。全面解決、トータルな解決しかない。
科学は知性、知識から引っ張り出した答えですから部分的です。まだまだ知らない部分がいっぱいある。だから一時的な答えです。いずれその答えはひっくり返される。
ニュートン力学をアインシュタインがそうしたように、またいずれアインシュタインの理論もひっくり返される時が来るでしょう。それは一時的な答えしかなっていないからです。
宗教は全面解決にベクトルをおいています。結局のところ人間にとっては神秘の世界に入るしかないということです。
神秘の世界ということは、その言葉の通り、神の秘密です。神の秘密を知るためには、この世的な知識は無力だということを知らなければならない。
科学はこの世的な知識、積極的に知ろうとする態度です。攻撃的とも言えます。
だから科学は暴力的です。知ろうとドアーを無理やりこじ開けようとする。
だから女性に科学者はいない。女性は受け身的ですから。無理やりこじ開けることはしない。女性はただ自分をオープンにするだけです。そして受け入れるだけです。
それでは科学にはマッチしない。
宗教が目指す答えは時空を超えた普遍の答えです。だからマクロにベクトルが向いている。
科学はミクロにベクトルが向いている。マクロではアインシュタインが限界まで行ってしまって、結局何も知らないということが分かったという結論になり、それ以上は宗教の世界に行くしか方法はないと結論づけたからです。
そのときから、科学の世界はミクロの世界にベクトルを変えました。それが量子力学の世界で、物質の最小単位を模索し続けています。そこから、素粒子より、まだ微小なものとして、クォークとか、ひも理論とかが出て来て、まだそれ以上の微少なニュートロンという素粒子が発見されてきています。アインシュタインやホーキンスのビッグバン理論もひっくり返るかもしれません。すなわち宇宙は膨張するという考えも絶対とは言えなくなってきています。そうすると人間の精神・魂も進化発展するという原理も崩れてしまう。膨張だけではなくて収縮もある。発展だけではなくて後退もある。さしずめ現代は後退の時代かも知れません。
そうすると、今までの宗教観も全部崩れてしまう。
今までの宗教はマクロの世界にベクトルが向いていました。天地創造主を探求してきたのですから。ですがそれもまた間違いです。探求できないことを探求しようとしているからです。宗教は神秘の世界の話です。これが全面解決の答えです。
真の宗教者は、「神とはいかなるものか」とか「神の存在を信じる」とかを主張する者ではない。
「いかに神の世界、神秘の世界に入ることが出来るか」を実体験しようとする姿勢です。
釈迦は決して「神とはいかなるものか」「神の存在を信じるか」という問いかけに答えることはしなかった。こう言った形而上学的(Metaphysic)な質問を無視しました。
こんな質問に対する答えは単に表相的なもので、神秘の世界との間には厚いカーテンがあると言いました。
知識が増えれば増えるほど、神秘の世界に入る障害になる。
だがアインシュタインのように、知識を使って、何も知らなかったこと、無知であったことを知ることが、神秘の世界の、ドアーの前に立てることも事実です。
だから知識を使うことによって無知であることを知る、そして純真無垢になる、そうすると神秘の世界のドアーが自然に開いてくれるということを良く認識することです。