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はじめに 聖徳太子と言えば、「十七条憲法」が余りにも有名になり、彼のもうひとつの偉業である「冠位十二階」の制定は忘れられていますが、「十七条憲法」と共に、「冠位十二階」制定の狙いに焦点を絞らなければ、聖徳太子の実像に迫ることは出来ません。 当時の朝廷の役人の役職や官位は世襲(セシュウ)制によって、親から子に受け継いで行く習慣でした。 古代から連綿と引き継がれてきた血縁・地縁の氏姓制度が世襲制度を生み、そのために高い位や役職についている一族の家に生まれないと出世出来ませんでした。 儒教精神が根付いている社会だったわけです。 ところが、聖徳太子は、家柄には関係なく、「人材登用」により優れた能力を持っている人を、その人に限って(一代限り)重く用いました。 役人の位を12に分け、冠に色帯をつけて一目で分かるようにしました。 大 徳 (濃い紫) ・ 小 徳 (薄紫) 大 仁 (濃い赤) ・ 小 仁 (薄い赤) 大 礼 (濃い青) ・ 小 礼 (薄い青) 大 信 (濃い黄色) ・ 小 信 (薄い黄色) 大 義 (濃い白) ・ 小 義 (薄い白) 大 智 (濃い黒) ・ 小 智 (薄い黒) 仏教精神に基づいた社会を目差したわけです。 中国では、科挙制度に基づく実力主義の「人材登用」が国家形成の基礎とされた、所謂「易姓革命」の社会であり、聖徳太子の理想国家像は将に当時の中国、すなわち、隋であったのです。 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々) 聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した際に持参させた隋の皇帝・煬帝に宛てた書状です。 「日本」という国を「日出ずる処」とした聖徳太子は一体何者でしょうか。 日本列島という島国の飛鳥地方で生まれ育った彼が、なにゆえ、日本という国が「日出ずる処」、すなわち、東の果ての地であることを知っていたのでしょうか。 紀元前13世紀末から前9世紀にかけて地中海東部に栄えたフェニキア人が、彼らの国から東の方はフェニキア語で“Açu(日の出る国)”と呼んだのが“アジア”の語源であり、彼らの国から西の方を“Ereb(日の没する国)”と呼んだのがヨーロッパの語源であります。 ユーラシア大陸のことを知っていない限り、日本という地が東の果て、つまり、“Açu(日の出る国)”であることをわかるべくもなかった筈です。 ところが、彼は「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)という書簡を中国の皇帝に送った。 聖徳太子とは一体何者であったのか。 この鍵を解くことが、本書の目的であります。 平成18年11月17日 新 田 論 |