第十二章(Part 1) 管領頼之失脚

永和四年(1378年)、大和国で起こった土豪の反乱で、幕府の管領頼之は南朝と組まれることを恐れ、鎮圧軍として斯波義将、京極高秀らを派遣した。
京極高秀は佐々木導誉の子であり、佐々木導誉・赤松則祐・今川了俊らの支持基盤で保っていた頼之に対して、斯波義将は京極高秀を味方に引き込み、加えて山名時氏・土岐頼康・渋川義行らと共に、将軍義満に頼之解任を訴えた。
まだ二十一才であった義満の怪物ぶりがここで発揮された。
「爺」と言って政治のすべてを任せていたというより、頼っていた義満であり、異例の官位の昇進によって将軍の権威高揚に貢献してくれた頼之であったにも拘らず、斯波義将を支持する大名が意外に多いことを知った義満は頼之を追放処分にした。
足利尊氏とその弟直義(ただよし)との争い以来、各国の守護大名は、幕府が一枚岩でないことにつけこんで次第に力をつけていた。
婆沙羅大名の親分格の高師直が摂津国の打出浜の戦で直義軍に敗け、出家する条件で助命されたはずが、反故にされ護送の途中殺害される事件が起き、高家が滅亡した。
後に忠臣蔵で有名な吉良上野介が高家筆頭と言われるのも、この高氏から来ている。
その後を継いだ京極家の庶子の流れを汲む佐々木導誉が頭角を現わしてきたのである。
婆沙羅大名の佐々木氏、土岐氏もいずれは、その力を削ぎ落とさなければならないと義満は着々と手を打っていた。
義満は将軍直属軍である奉公衆を組織して将軍権力を強化していった。
その一方、将軍直轄文人で組織される奉行人に、それまで足利家執事で幕府執権職にあたる管領の実権を剥奪させるよう仕向けた。
要するに鎌倉幕府源頼朝以来の将軍家実権の復活を目指したのである。