第十三章(Part 1) 花の御所

康暦(こうりゃく)元年(1379年)に頼之が失脚した事件を康暦の政変と言う。
斯波義将がその後の管領となったが、義満は着々と彼らの力を削ぎ落とす策に出た。
最初の策が将軍家の威厳を見せつけるための将軍の邸宅造営であった。
康暦二年(1380年)、京都の室町に義満は大邸宅を造営し、京都中の公家、武家屋敷にある花という花をすべて、この邸宅に寄贈させ、帝の住むところしか呼ばない御所の名を取って花の御所と呼ばせたのである。
後円融天皇が六才の幹仁(もちひと)親王に皇位を譲った永徳元年(1381年)に、義満は花の御所である室町第(むろまちてい)で大落慶供養を催した。
六才の幹仁親王は後小松天皇となり後円融は上皇になった。
『まず一手を打てたのう!』
呟きながら、義満は満足していた。
次の策として、義満は朝廷の女御への種付けに精を出した。
もちろん後円融天皇の妃である厳子に対しても大嘗祭以来の関係が続いている。
後円融が天皇を退いて上皇になった原因は、義満の朝廷女人たちに対する種付けが天皇の耳に入り、神経衰弱になって皇位を息子に譲ったのが真相である。
その後、后の厳子が自分の子を産んだ直後に、天皇は何を思ったか、「峰討ち」事件を起した。
妃の厳子が自分の子を出産した直後に、天皇は妃を峰討ちにしたのである。まさにリンチ事件である。
峰討ちされた厳子は、すぐに貞子によって手当を受けたので一命を取り止めることが出来たが、それほど熾烈極まるリンチを天皇から受けたのである。
それ以来、後円融天皇は精神が錯乱状態になり、義満の叔母の皇太后である崇賢門院に「自殺してやる!」と今で言う駄々をこねるだけしか出来なくなった。
義満が貞子に言った、『まず一手を打てたのう!』は何を意味するのであろうか。