第十六章(Part 1) 按察局(あぜちのつぼね)出家

三条厳子の峰打ち事件があった永徳三年(1383年)二月一日から十日後の二月十一日、按察局が突然出家して尼になるという事件が起きた。
義満と密通していることを知った上皇が激怒して内裏を追放したのだ。
按察局が内裏を追放されて出家したという話しを聞いた義満は、「してやったり!貞子!かねてからの手筈通りにな!」
と狂喜した。
三条厳子の峰打ち事件と、按察局の内裏追放・出家事件の噂が洛中で広まった。
天皇家の面目が丸潰れになり、義満の権力の強大さだけが目立つ結果になってしまった。
事の重大さを感じた上皇の母である崇賢門院は、義満を説得し、武家伝奏日野資康と崇賢門院の弟である広橋仲光を御所に派遣して身の潔白を弁明するように取り計らった。
しかし、上皇は怒り心頭で、二人の対面を拒絶した。
ところが、日野資康が恐るべきことを上皇の側近に告げた。
「左大臣殿は上皇の配流を考えておられるようじゃ!」
仰天した側近はその由上皇に伝えると、上皇は震撼してやにわに宮中の持仏堂に駆け込み、生母の崇賢門院に、「自殺してやる!」と喚き立てた。
天皇や上皇の配流は保元の乱での崇徳上皇、承久の変での後鳥羽・土御門・順徳三上皇、そして元弘の変での後醍醐天皇の隠岐への配流という例があるが、いずれも謀反か敗戦が原因であった。
今回の上皇には何の非もない。
上皇に告げ口をした側近たちまで、義満に操られていたからである。
根も歯もないことを上皇の耳に入れ精神衰弱に追い込んだのである。
如何に朝廷側の側近が義満に阿諛追従(あゆついしょう)していたかが窺える。
そもそも鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を上皇に奏上する臣下が上皇のまわりにいれば、このような天皇家にとっての恥辱事件は起こらなかったであろう。