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第十七章(Part 1) 治天の君 後円融上皇は息子の幹仁親王に皇位を譲り、自らは上皇となった。 幹仁親王は後小松天皇となったが、まだ六才であり政務を遂行できるはずがない。 後円融上皇が院政を敷こうという考えである。 自ら皇位を退き上皇となるが、政務は依然天皇に譲らず自ら執政する実権者のことを「治天(ちてん)の君」と言う。 天皇家の歴史は世界に冠たる万世一系の最も古い家系である。 その歴史の中で、即位した天皇が政務を執る天皇親政が当然の建前であったが、代行者が執政するという方が圧倒的に多かった。 明治天皇から昭和天皇が大東亜戦争で敗戦するまで、国家の大権と軍隊の統帥権を保持していた時代は天皇親政の時代であった。 敗戦後の日本は現在に至るまで、国民投票で選ばれた議員の中から政務を執る首班が選ばれ、天皇はただ任命するだけで自らは象徴だけで実権はない。 武家支配八百年は、幕府の支配者が実質上の政務を執った時代であった。 天皇親政が実行されていた時代は欠史九代と言われる初代神武天皇から九代開化(かいか)天皇、そして十代崇神(すじん)天皇から三十代敏達(びたつ)天皇までである。 三十一代用命天皇、すなわち聖徳太子の父君の時代からは、蘇我一族の娘が入内(じゅだい)つまり后となり蘇我一族が天皇の岳父となる外戚(がいせき)として実権を握る時代になり、その後、大化の改新によって藤原氏がその外戚を蘇我氏に取って替わり、それ以後千三百年間昭和天皇まで続くのである。 その間で、天皇親政を試みたのは四十代天武天皇から四十八代称徳天皇までの天武王朝だけであった。 そして十世紀あたりから藤原氏による外戚政治、いわゆる摂関政治が始まるのである。 ところが七十二代白河天皇が一〇八六年に初めて天皇を退位して上皇となって院政を敷き、それ以後、後円融上皇が死ぬ一三九三年までの約三百年間は藤原摂関政治に対抗した天皇家の執政時代で、その最高実権者が治天の君であった。 天皇はあくまで将来「治天の君」になるための見習いであったに過ぎない。 因みに蘇我氏による外戚政治が始まった三十一代用命天皇の後、三十二代崇峻天皇が暗殺され、初めての女帝推古天皇が成立した際に、聖徳太子が摂政として政務を執ったが、結果は非業の死を遂げることになる。 近代においては、大正天皇に取って替わって裕仁(ひろひと)親王が摂政となって政務を執り昭和天皇になったら、自らの意思に反して大東亜戦争を起こし敗戦、自ら戦争責任を取ろうとした歴史は、天皇家の親政の後には何か不吉なことが起こることを示しているように思えてならない。 歴史の偶然なのか、何かの人為的意図的働きがあったのか、それは闇の中である。 |