第十九章(Part 1) 北山第(きたやまだい)

西園寺実俊前右府、久我大納言、葉室前大納言の三人は、公家の女人を総なめする義満に楯突いた数少ない人たちであった。
一方、後円融上皇の側近を通じて配流の噂を流し、上皇を乱心状態に陥れた日野資康(すけやす)は自らの妻・池尻殿を義満の妾として差し出した。
中山親雅(ちかまさ)の妻・加賀局、義満の弟・満詮(みつあきら)の妻・誠子等も、みんな義満の妾として差し出すことで我が身の栄達を獲得していった。
西園寺実俊は史上初の女性・治天の君となった広義門院(西園寺寧子)が死んだことで、勢力が衰退していき、そこに義満の勘気に触れて、以前から義満が狙っていた山荘北山第を奪われた。
『やっと実俊の北山第をこの手にいれることができた。さあこれから大構築をして、あっと言わせる大伽藍を北山第につくってみせる!』
当時の武家は臨済宗を武家の総檀家として扱い、東山の南禅寺は総本山として栄華を極めた。
自分を祀る臨済宗の寺を北山第につくることを前から考えていた義満は、その名を鹿苑寺と名づけ北山第の中心に建立した。その時に三重の総金張りの舎利殿を池のそばに建てた。後に鹿苑寺が金閣寺と呼ばれるようになった舎利殿である。
西園寺実俊の山荘を奪った義満の仕置きは、彼に逆らう公家にも向けられた。
久我大納言は従来から源氏長者名、淳和院別当(じゅんないんべっとう)および奨学院別当(しょうがくいんべっとう)の両方を保持していた名家であったが、その両院別当の地位を義満に奪われた。
そして朝廷と武家との橋渡し役であった武家申次(執奏)の権限を、武家伝奏に移し、万理小路(までのこうじ)嗣房(つぐふさ)を伝奏中納言に取りたてた。
京の都では、ほとんどの者が実質の国王は義満だと認めていた。
後円融上皇は、治天の君でありながら何の実権もなく、内裏の女人まで寝取られる屈辱にますます神経が衰弱していった。
心配した生母・崇賢門院は、甥である義満の北山第を訪ねた。
「これは叔母上様。用命があれば参上致しましたものを・・・」
義満はただの我がまま三代目ではなかった。
崇賢門院も内心、『これでは、いくら緒仁が頑張っても埒のないこと』と思って諦めた。
「いや、義満殿の権勢を少し覗かせて頂こうと思って伺っただけのことです」
崇賢門院は笑って答えた。