第二章(Part 1) 応安の変

二代将軍義詮が死んだ貞治六年十二月の三ヶ月後、応安元年三月南朝の後村上(ごむらかみ)天皇も死んだ。享年四十一歳。
後村上天皇は吉野に南朝を開いた後醍醐天皇の子である。
義詮の父・足利尊氏は後醍醐天皇の仇敵であり、後村上天皇は義詮のライバルであったが、その二人がたった三ヶ月の間にこの世から去ってしまった。
南北朝と言っても天皇の正統性は南朝が持っていた。
それは三種の神器が南朝方にあったからだ。
義詮が死ぬ一ヶ月前の貞治六年十一月に四国の守護だった細川頼之が管領になった。
頼之が管領になった後、数ヶ月の間に、室町幕府将軍と南朝の後村上天皇が死んだことになる。
しかも後村上天皇は父の後醍醐とは違って温厚な性格で、管領・細川頼之と和平するつもりだったし、将軍義詮もその話に乗り気だった。
それがすべて水の泡となり、もとの木阿弥に戻ってしまった。
まだ十一歳の若き将軍義満にとって、都合のいい出来事ばかりが次々と起こる。
そしてそれから十一年後の康暦(こうりゃく)元年、二十二歳になった義満は満を持して十一年続けた管領・細川頼之を解任し、この時点から義満の独裁政治が始まることになる。
だが義満の暗躍は既に十歳になった頃から始まっていて、そのきっかけをつくったのが内裏の女人たちであった。
特に貞子は後光厳天皇の寵愛を得られなくなった頃から義満に近づき、夜な夜なの閨事(ねやごと)の際の寝物語で指嗾(しそう)していった。
父である義詮が急死した際も、貞子と閨事をしていたが、母の良子はそれ以上の疑いを持たなかった。だが、後に義満の異常なほどの朝廷、特に天皇家に対する仕打ちを遠くから眺めていくうちに、良子は我が子とは思えない魔性を義満に感じ取っていた。
後村上天皇が死んだ応安元年に、細川頼之は「応安の半済令」を発した。
この禁令は後代まで悪法と言われたものだが、頼之が管領として発したことになっている。しかし幕府の棟梁・義満が発したものである。
その年の十二月三十日、足利義満は征夷大将軍に就任した。
「春王殿。ことはうまく運びましたね」
貞子は寝所で義満に優しい声で囁いた。
「わしは、もう春王ではない。これから上様と呼ぶのじゃ」
まだ十二歳の少年だと思っていた貞子も、良子が感じた義満の魔性をこの時一瞬感じたが、肉体の欲望が心を曇らせた。
後に命とりになる運命を貞子は知る由もなかった。