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第二十一章(Part 1) 陰陽師・有世 武家にとって臨済宗が総檀家となったのは、天皇家の総檀家が比叡山天台宗であるのに対抗してのものだった。 官位叙任権・改元権・祭祀権が天皇家の権威を象徴する大事な権限であったのを、義満はひとつひとつ剥奪していった。 祭祀権でも天皇家の祖先崇拝である神祗に対抗して、鎌倉幕府以来武家は、中国の陰陽五行論を基盤にした陰陽道を積極的に支持した。 陰陽道に従事する陰陽師(おんみょうじ)は、平安期以前には吉凶の判定や、天文気象の観測、時刻の管理に当たっていたが、平安期に入って、祓(はらい)や祭りなど、祭祀にも関わるようになっていった。 陰陽説は、陰(月)と陽(太陽)との相対二元論を、男女、正悪、強弱などに区分けして、その正反対の性質を正しく理解し、実践に使っていく方法論を説いた思想である。 陰陽五行論は、太陽の惑星である木星、火星、土星、金星、水星(当時は天王星、海王星、冥王星は発見されていなかった)それぞれの特徴を思索して地球に如何なる影響を与えるかを、太陽と月の陰陽説とその間に存在する五つの惑星の五行論を集大成した、現代で言う天文宇宙学であった。 一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星と白と黒の間に五色を配して七の法則を中国流天文学で表した極めて論理的思想であった。 中国を理想国家と認識していた義満は、鎌倉時代から引き継がれてきた武家の陰陽道に、天皇家の神道に取って替わって、祭祀権を与えようとした。 その祭典の中心は天曹地府祭と泰山府君祭を各月交互に行うもので、特に義満は泰山府君祭を重視した。 その最大の理由は、陰陽道の祭事の中心は中国山東省にある泰山の道教信仰から来ている点にある。 泰山は中国五岳の一つとして、山東省都・済南市から約一時間南下したところにある山で、「泰山鳴動ネズミ一匹」で有名な山だが、海抜1524メートルとそれほど高い山ではなく、その山の形は四国剣山に非常に良く似ている。 現在では、山頂近くまで車で上ることが出来、そこからケーブルで山頂に登ることが出来るようになっている点は剣山も同じである。 山岳信仰といい、役の行者が修行する山という点においても、歴史的には四国剣山は中国の泰山を模倣したものと考えられる。現在でも天皇即位式の大嘗祭の際、即位する天皇が纏う麻の衣類が剣山麓の三木家で織られている伝統があるが、古代中国で王朝が替わっても、歴代の皇帝は泰山に参って、封禅(ほうぜん)と言って泰山で天地に、皇帝になったことを報告する国家的祭典をしてきた歴史と符号するように思われる。 秦の始皇帝を皮切りに漢の武帝、後漢の光武、唐の高宗・玄宗、宋の真宗等が莫大な費用を投じて行った祭典である。 中国の封禅をなぞった泰山府君祭は義満にとって、まさに新皇帝の式典と思っていたに違いない。 義満が最も重用した陰陽師は土御門有世(つちみかどありよ)と言って、義満によって至徳二年(1385年)従三位を与えられ昇殿を許されるといった破格の出世をして、その後刑部卿(ぎょうぶきょう)従二位にまで出世を遂げた。 そして有世は、 「祈こし君が恵みにくらい山 代々(よよ)にも超えて昇りぬるかな」 と詠み、治天・天皇以外には使えない「君」の敬称を義満に対して使ったのである。 ここに、義満は実質上、天皇扱いされていたのである。 |