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第二十三章(Part 1) 明の朱元璋 義満が弱冠十一才で将軍になった応安元年(1368年)、中国では朱元璋が明の国を興した。 それから六年後の応安七年(1374年)、義満十七才の時、「日本国持明」なる者が「国臣の書」を携えて明国に行った。その国臣とは将軍義満のことであった。 そして康暦二年(1380年)、義満二十三才の時、征夷大将軍源義満の名で、「丞相に捧ぐる書」を使者に持たせて明国に行かせている。 応安七年は、将軍は義満といえども管領細川頼之が政務の実権を握っていた時代である。 そして永和四年(1378年)に義満は頼之を解任しており、その二年後に明国に国書を送っているということは、義満が将軍になった十一才の時から、明国を意識しており、十七才の時には管領頼之といえども義満の命令には従っていたと考えられる。 春王時代から、天狗の異名を轟かせていた義満は、既に非凡さを発揮していたのである。 征夷大将軍源義満名で、「丞相に捧ぐる書」を受け取った朱元璋は、この書状を公式には日本国王からの国書と判断せず拒否したが、その内容を読んでみて、征夷大将軍源義満なる人物に興味を持った。 「源義満なる武将は、日本の実質上の支配者であることは間違いない。しかし明国は世界の中心にあたる大国家である。返事をする必要はないと追い返せ」 家来にそう言わせたものの、皇帝朱元璋はさすがに明の大帝国の大宗である。 人を見る目は鋭い。 「元の時代にフビライ汗が日本の国を攻め入ったが失敗した。小さな島国であるが、決して侮ってはならぬ。皇帝と国王とが共存している変わった国で、得体の知れぬところがある。その使者を丁重に扱って、日本国のことをよく聞いておくことを怠るでないぞ」 中国の歴代王朝は、日本と違って易姓革命思想が定着しており、王権の纂奪は常識である。 それだけに義満の実力を正当に評価をしていたのである。 |