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第二十六章(Part 1) 束の間の栄華 永和四年(1378年)及び康暦元年(1379年)の義満の奏上による西園寺公永及び二条良基の官位の叙任を、決死の覚悟で拒否した後円融上皇は、義満の種を孕み、それを意図的に流してまで上皇のことを憂慮した厳子の想いに応えて、精神的に最も落ち着いた時を送っていた。 義満との相克もさほど無く、穏やかで平和な期間であったが、それは上皇最後の悲劇の序曲であった。 永徳二年(1382年)。厳子は後円融の子を孕んだ。 この時期、義満は病がちで、まだ嫡男が生まれていないこともあって、閨事(ねやごと)は正室日野業子(なりこ)だけに絞っていた。 その間に厳子は後円融の子を孕み、もともとしっくりしていなかった夫婦関係が極めて良くなった時期であった。 貞子から、厳子が身篭ったことを聞いた義満は、自分の子種でないことは明白であったので地団太を踏んだ。 貞子も義満に言わなければよかったのだが、女の気持ちは計りしれない。 妹の厳子に必死に子種を植え付けようとする義満に対してではなく、妹の厳子に嫉妬心を燃やしていたのだ。 自分から進んで天皇の后である妹を義満に提供し、三人交えての閨事も重ねていたのに、嫉妬心を抱く女の気持ちを、まだ若い男の義満には到底理解できるはずもなかった。 しかし、老獪な年齢に達した貞子には、義満の心情は手に取るように分かっていた。 その結果、厳子が後円融の子を孕んだことを敢えて義満に知らせたのである。 政治力においては、見事なまでの老獪さを発揮する義満も、男女の問題では貞子の手中に入っていたのだ。 地団太を踏んで悔しがった義満が、どういう手を打つのかも貞子には読めていた。 「日野資康を呼べ!」 義満は武家伝奏である日野資康を呼び付け、罠を仕掛ける相談を持ち込んだ。 日野資康は武家伝奏という役職もあって、情報操作にかけては右に出る者はいないことを知っての相談であった。 貞子さえ、この相談事の中に入れてもらえなかったが、貞子は察しがついていた。 そして予想通り、後円融上皇の束の間の平和をぶち壊したのであった。 |