第三十章(Part 1) 「仰せ」の止(とど)め

永徳四年(1384年)二月に起きた三条厳子の峰打ち事件は、洛中に大きな噂として飛び交った。
天皇家は「品格」のある家柄で、権威を重んじる特別の存在でありながら、その后を折檻して大怪我を負わせた。
歴代天皇で残虐性を発揮したのは第二十五代武烈天皇ぐらいである。
他人の愛人を横取りするために、その男を殺したり、妊婦の腹を割き、中の胎児を見るという異常な天皇であったと日本書紀は記している。
後円融も、同じような評判を峰打ち事件で立ててしまい、それ以来持病の神経衰弱が高じていき、義満の専制体制はますます強化されていくことになる。
官位の叙任権においては、摂関家、太政大臣等の任命も天皇や治天の君は、ほとんど寝耳に水の状態になり、この頃から、義満の言は「仰せ」と言われるようになっていった。
いかなる場合でも「仰せ」と言えば、それは義満の命令であるというのだ。
そしていつしか、「仰せ」が「天狗の仰せ」と洛中で言われるようになっていった。
「天狗の仰せで、大納言殿が罷免された!」
「関白二条師嗣に天狗が仰せられた!」
都の中では「仰せ」の言葉が流行し、民衆が「仰せ仕り候」と唱和する。
義満が、後小松天皇や治天の君に仰せつかわりし候うことなどと揶揄する話が流行(はやって)いった。
そして明徳四年(1393年)四月、極度の神経衰弱が悪化して、薄幸な後円融上皇が崩御した。
後円融が亡くなる間際、付き添ったのは生母の崇賢門院だけで、他の者は一切、後円融の意向で退けられ、寂しい崩御であった。
「どうか、最後に村正を朕の手に!」
崇賢門院は、厳子を峰打ちした剣・村正を後円融の手に持たせて涙して言った。
「これが緒仁の辞世の言葉とは、何と哀れなことよ!」
村正を持った後円融は、北山第の方角に村正を向け、
「いつかは、この恨み晴らしてみせようぞ!」
と叫んで息を引き取った。
その時、義満は北山第の舎利殿で、厳子と激しい情交の最中であった。
一時は、上皇の方に気持ちが傾いた厳子であったが、峰打ち事件で瀕死の傷を負わされ、刀傷だらけになった体は、女にとってもっと大きな心の傷を与えてしまった。
二人の閨事(ねやごと)の絶頂の瞬間、薄幸の帝・後円融は息を引き取り、まさに二人の情交の吐き出した情念が止めを刺したのである。
『治天の君崩御!』の報せを寝所で聞いた二人はさすがに良心の呵責に、その後苛まれることになる。
義満は翌・応永元年(1394年)、征夷大将軍を嫡子義持に譲り、自ら太政大臣となり、翌・応永二年には太政大臣をも辞し出家して法名・道有(どうゆう)となる。
日本国王の正式位を明国に認められ、朝貢政策を進めていく。
これは一種の売国行為であった。
我が国を売ってまで、日本国王の位を求めた義満は、それから十三年後、子の義持によって、また我が種の後小松天皇との陰謀で、村正によって北山第舎利殿において、厳子とその姉貞子ともども、閨事(ねやごと)の最中に襲われ、暗殺されることになる。
その時、三人を斬り殺した村正は忽然と姿を消したのであった。
後円融の義満に対する怨恨は、ついに十五年の歳月を経て晴らされたかに思われたが、後円融の怨みの深さは底知れず、“オヒト”という名前の現代青年に生まれ変わって、千数百年の時空を超えて引き継がれてゆき、“オヒト”の魂は、“春王”の魂を追いかけていくことになる。