第三十一章  妖刀・村正

「カチン」という音を聞いた橿原教授は、雄仁の方を向いた。
金閣寺垣を登りきった処にある安民沢の池の前に立っていた雄仁の前に、空から落ちてきたように刀が放り出された。
『わしは緒仁(おひと)。お前も雄仁(おひと)。この村正を以って我が怨念を晴らしてくれよ!』
雄仁は何事が起こったのかまったく分からなかったが、誰かが自分に怨みを晴らしてくれと頼んでいるらしいことは分った。
一方、橿原教授は事の成り行きを事細かに頭の中に叩き込んだ。
二人のオヒトが無言の会話をしているようで、感応し合っているとも言える荘厳な場面を目の当たりに見ているのだ。
1394年と1949年の間、555年の時空を超えた魂の邂逅が今まさに起きているのだ。
『オヒトよ。お前のような強い魂を朕はどれだけ欲したことか。あの化け物天狗を、お前なら退治できるはず。朕が没してから、あの天狗はますます増長して梯子を駆け登りおる・・・』
話しかけているのが後円融天皇だということを、雄仁は知らない。
それを何とか伝えようと思う教授なのだが、金閣寺垣を上がって行くことが出来ないのだ。
金縛りにあって、体を動かすことが出来ない。
昭和24年1月27日、平岡雄仁(オヒト)に、怨念に満ちた妖剣村正と共に降臨した緒仁(オヒト)親王は、雄仁(オヒト)の父を犠牲にしてまで蘇ったのである。
緒仁は雄仁に戻れと叫ぶ。
『今ここにある北山第に、あの頃に戻り、我が女御をすべて食い尽くされた怨みを晴らしてくれ!』と叫んでいるのだ。
しかし、雄仁は織田信長に心を奪われていた。
天皇の感傷など気にもかけていない雄仁に、再び緒仁は懇願した。
『朕は、信長なら皇位を奪われてもよかったと思っている。しかしあの天狗に皇位を奪われることだけは耐えがたい』
「それなら、信長は何故本能寺で殺されたのですか?」
雄仁は緒仁に訊いた。
『よいか!信長を討った光秀こそ、あの天狗が差し向けた刺客なのだ。歴史で伝えられてきたことは、悉く真実とは逆なのだ。早くあの時代に戻って来てくれ。そしてあの天狗の梯子をはずしてくれ!』
少しずつ同通しだしたのか、雄仁は静かに喋るようになっていった。
橿原教授は、この場面を予想していたのだ。
その為には、東大教授の地位を捨てても構わないと思っていた。
その時、再び「カチン」という音がした。
妖刀村正が雄仁の手に持たれた瞬間だった。