第三十七章  橿原公威

『輪廻転生があるかどうか・・・』
これは宗教の永遠のテーマである。
殆どの宗教が肯定しているが、生きている人間が死んだ後のことを断言出来るはずがない。
この考え方は、Atheism(無神論)とかTheism(有神論)の問題ではない。
Logic(論理)の問題である。
Logicの逆はIllogicで不合理という意味だ。
死んだことのない人間が、死んだ後のことを断言するのはIllogic(不合理)だ。
あくまでReason(推論)までの範疇である。断言は出来ない。
結局は思い込みであろう。
橿原教授は、555年前に死んだ後円融天皇が雄仁の前世であり、源春雄という学生の前世が足利義満で、雄仁の母のハナが皇后厳子であると思い込んでいた。
最初は、客観的な立場にいたつもりだったが、知らぬ間に自分もその思い込みの舞台に立っていたのに気づかなかった。
無神論者がいつの間にか有神論者になっているのが一番恐ろしい。
それなら一体、橿原教授の前世は誰であったのか。
本人もまだ分かっていない。
人間の輪廻転生を信じながら,自己の前世が分からないのが、殆どの人間の実態だが、一般の人間は輪廻転生を日常深く考えていないから生きてゆける。
今、橿原教授は目の当たりにした数人の知己の前世を知り、我が前世だけが分からずじまいの宙ぶらりんの状態に置かれた事が、この後に、大きな問題提起となって顕れてくることを本人も分かっていなかった。
その夜、ハナと雄仁は一つの部屋で寝た。
久しぶりに親子が再会したのに、ほとんど喋ることもなく、眠ることも出来ず、体を動かすことさえ出来ず、石像が二体、布団の中に横たわっているようだった。
しかも、その部屋の外の廊下で、橿原教授の正体不明の前世が、二人の様子を
窺っていたのである。
橿原教授は徹夜でハナ・雄仁親子の様子を窺っていたが、何事も起こらず、朝
自分の部屋に戻ったのは六時を過ぎていた。
『このまま寝てしまうと、八時に朝食の約束を雄仁親子としているのに起きられないかも知れない・・・』と思って、散歩に出かけた。
百万遍の交差点から丸太町通りを西に向うと、鴨川に出る。
鴨川の堤沿いを歩いていると、前から学生服姿の源春雄が歩いて来た。
一瞬、懐かしい想いがした教授だったが、別にそれ以上感じることはなく、ただの偶然と思って、視線が合う距離まで近づいた処で挨拶のつもりで笑った。
「おはようございます。えらく早い散歩ですね!」
春雄も親しさを込めて挨拶した。
橿原教授は三十代半ばを過ぎていたが、未だに独身だった。
外見も立派で、実家もしっかりしていたから、もっと早く家庭を持ってもおかしくはない。
母親の女将も、一時は結婚を早くするよう促したが、これだけは縁のものだからと思って、いつしか口に出すこともしなくなっていた。
父親が早く死に、彼の兄も若死にして母一人子一人になってしまい、無意識の中に母でありながら嫁になった気持ちもあったことは確かだ。
逆に、こうなったら嫁は必要ないと内心思っていた嫌いがある。
それともう一つ、本人も気づいていたが、男色の気があるのではと思われる節があったことだ。
それに気づいたのは夢に出てくる性行為の相手が必ず同性であったからだ。
東大の先生になったのも、自分自身が性倒錯者ではないかと疑い、それに対する精神的防波堤を必要としたからであった。
このまま俗世間に出たら、一気に性倒錯のエネルギーが噴出してしまいそうに感じていた。
源春雄と出会った時、そのエネルギーが出ていたことに気づいていない教授であったが、朝の誰もいない鴨川という環境が、そのエネルギーの最初の一滴を見せかけた。
「お早う。君はたしか京都大学の森で会った学生さんだったね!」
いかにも、失念していたように振舞う自分に疑問さえ感じない精神状態にあったと言える。
「たしか?」
教授が首をかしげると、
「源春雄といいます」
可愛い笑顔を見せた凛々しい春雄を、じっと見つめた教授の首筋に電気が走ったような気がした。
教授の頭脳に集中されていた知性エネルギーが異常な性エネルギーになって下腹部に落下した稲光であったことに、まだ気がついていなかった。
「あなたのお名前は?」
春雄が遠慮しながら尋ねた。
その態度物腰を見て、再び稲光が今度は直接下腹部に走って、教授はやっと気がついた。
東洋哲学では、人間の命は生命と体命とに分けて考える。
体命とは、まさしくその字の通り、肉体が機能する源である。
一方、生命というのは、肉体が機能不全を起こして心臓や脳が停止しても、まだ肉体を生き返らせることが出来るエネルギーで、地球の母体である太陽から発せられたエネルギーのことで、人間にも降り注がれている。
このエネルギーは肉体レベルではなく、肉体をカバーしている衣服のように存在するエーテル体というところに入っていく。
食物を摂取することで、肉体を動かす燃料になるのと同じ原理で、生命を維持する為に必要なエネルギーでエーテル体を通して肉体に与えられる。
その一つがセックスエネルギーであり、下腹部に蓄積される。
首筋に走った稲光では気づかなかったが、下腹部に走った稲光で教授は悟った。
「橿原公威(きみたけ)といいます」
正気に戻った教授は、春雄に笑顔を見せながらいった。
その表情には、昨夜から徹夜で雄仁とハナの寝床を見張っていた教授のものとは、明らかに変わっていた。
「たしか、君は龍谷大学の学生だと聞いたが、どうして京都大学にいたのかね?
僕は京都大学の教授なんで、不思議に思ったんだが」
「あなたは、京都大学教授だったのですか!」
驚いた表情の中に憧れの笑顔が混ざっていたのを、教授は見逃さなかった。
「この近くに僕の家がある。都屋というんだが、ちょっと寄ってみないかね」
もちろん春雄は頷いた。
春雄の後ろ姿を見た教授の下腹部にまた稲光が走った。