第四十五章  金閣寺VS南禅寺

臨済宗は禅宗の元祖である。
日本では栄西が開いた宗派であるが、そのルーツは仏教開祖の釈迦牟尼仏に辿りつく。
インド天笠で仏教を開いた釈尊が、弟子の摩訶迦葉を第一祖としてその後継者に指名して以来、第二十八祖・菩提達磨(ダルマ大師)まではインドの一宗教であったのを、彼が中国(当時の震旦)に伝導し禅宗の礎を築いたのがその始まりである。
ダルマ大師が震旦開祖(初祖)となった禅宗は、第四祖・大医道信、第五祖・大満弘忍、第六祖・大艦慧能と引き継がれ、ここで多くの高弟を生み、その中でも際立った南嶽懐譲の唯一の弟子・馬祖道一が中興の祖となり、問答による自力解脱を説いた宗派が、臨済宗開祖・臨済義玄へと引き継がれていった。
紀元866年のことである。
それから約250年の時を経て、日本の明庵栄西によって禅宗を開花させたのが紀元十二世紀の初めであり、更に半世紀後に道元によって曹洞宗が開かれたのが、日本の禅宗の興りである。
曹洞宗派が浄土真宗と双璧の多くの信者を持つに至ったのは、一般大衆に教えを説いたからであり、一方臨済宗は武家の世界に組み込まれていったが故に、大きな広がりには至らなかった。
鎌倉時代に始まった武家政権が、僧侶の勢力も武力集団の一つとして取り込んだ理由もあった程、当時の宗教組織は力を持っていた。
その中で代表されるのが南禅寺である。
南禅寺は臨済宗の総本山として権勢を誇り、多くの武家集団から庇護を受けていた。
そして足利義満によって金閣寺(鹿苑寺)、義政によって銀閣寺(慈照寺)が建立され、いわゆる相国寺派は信仰よりも政治色を強めて行った。
日本の臨済宗の中興の祖として、その名を馳せた白隠禅師は、政治色の強かった臨済宗を本来の信仰へ戻す為、妙心寺派をつくった功績を称えられているのである。
橿原公威が京都大学教授から南禅寺僧・道有に変身した、その時から臨済宗の性癖である闘争癖が、分派である相国寺派の代表、金閣寺に向けられていった。
橿原教授の実家である都屋旅館に下宿していた平岡円融と源道有は、都屋を出て、金閣寺に移り、そこから大谷大学と龍谷大学に通うことになった。