第四十六章  多重・輪廻転生

この世での人の一生の総決算は死ぬ時にある。
いくら素晴らしい人生を送っていても、死の決算をさせられる時にぶざまな姿を露呈すれば、死に顔に顕れ、見送る人にも見抜かれる。
あの世とこの世の狭間で、自分のぶざまな姿と醜い表情を語り告がれているのを眺めて地団太踏んで、そして三途の川を渡らずさまよい歩くらしい。
十一才で将軍職に就き、閨事に明け暮れ、青年ですべての権力を握った室町幕府三代将軍足利義満の不幸は、最後にやって来た。
三代目が苦労知らずの馬鹿将軍になるのは、いわば宿命だが、義満の場合は初代尊氏の器量不足を、義満に政治的力量でカバーさせようとする歴史の思惑が働いたのかも知れない。
若くして苦労知らずの義満でありながら、天才的な政治的力量を発揮した為に、日本の根幹を成す天皇制という犯すべからざる聖域に不覚にも踏み込んでしまった清算を死の間際でやらされた。
その結果、転生するのは一人である原則なのに、二人の人間に転生した業が悲惨な人生を自らのみならず、周りのものにもその影響を与えていくことになる。
天皇家を否定していた権力者としては、織田信長にもそれを垣間見ることが出来る。
しかし、信長は実質上の創始者であったし、創始者の苦労を十分に味わっていたから、合理的思考の持ち主だったことからして天皇制を廃止する考えはあったはずだが、義満とは根本的に違っていた。
輪廻転生することは一般的には良いことのように思われている節があるが、時には逆の場合もある。
前世よりも過酷な次の人生が待ち受けているとなると、誰でも生まれ変わりなどしたくないと思うのが自然な心理だ。
前世で余りにも人の怨みを買い過ぎた義満は、新しい生まれ変わりが一人ではとうてい贖うことが出来なくて、同時期転生に複数の肉体に魂が宿るという、世にも恐ろしい現象が起きたのである。
橿原公威と源春雄。
この二人の前半の人生は、極めて穏やかなものであった。
一人は大学教授までなり、一人は源氏の血を引いた名門の看板を与えられた素直な青年であった。
それだけに、これからやって来る清算の大きさは想像を絶するものになることを二人は知る由もなかった。
又それを顕現させる役割が、平岡雄仁であることも。
不滅の魂が、同時期に複数の肉体に入り込む確率は極めて低く、それは余程の条件が揃わなければならない。
最大の要件は現世への執着の強さである。
あれだけ人間の欲望をすべて満足させた男であっても、やはり限りのないものには歯が立たないのである。
持って生まれた本性と、幼児の体験が織りなす人間の性は、一生消えない。
雄仁こと円融は、持って生まれた前世の緒仁こと後円融天皇の本性と、現世での父親陣内の殺人事件という幼児体験が、母親ハナが輪姦された時に、混在した形で表面に出た。
この世ではタブーの近親相姦という形で顕れ、平岡雄仁の人格を形成していき、遂には修行僧・雲円融として前世でやり残した想いを遂げようとする異常な執着が顕在化しようとする段階に入ってきた。
どちらが主役なのか。
どちらも自分を主役と思って、この世を生きているのが凡夫の愚かさである。
前世での因果が、今世で報いとして顕れるとするなら、修行僧・雲円融と二人の道有の因縁は永遠に消えることはない。
やられ、やり返すの繰り返しは地の果てどころか、宇宙の涯まで続くことになる。
輪廻転生があるとするなら、この地の果てまで続く因果応報が為せる業としか思えない。
生まれ変わる毎に魂が向上していくのが輪廻転生などと嘯く宗教を、麻薬だと斬り捨てた共産主義思想にも理屈はある。
人類が辿って来た歴史を振り返れば、時の経過と共に発展進化していくことが真理だとは決して断定出来ないことも確かである。
時の経過と共に退化していく場合も有り得る。
雲円融が修行僧としてこれから体験していくことになる千変万化の夢舞台は、それを証明するかも知れない。
一方、二人の道有は、前世のしがらみは同じでも、今世の幼児体験が違うことで、これからの人生に大きな乖離が生じるかも知れないし、その逆も有り得る。
何と言っても、前世で同じ魂が今世で違った二つの肉体に宿り、因縁の京都で出逢ったのだから、複雑怪奇な話になるのに、そこに前世で決定的な因縁を持った魂とも同じ今世で、しかも京都で出逢った。
人間の魂が輪廻転生するのが事実だとするなら、こういった場合には、どういう結末になるのであろうか。
あの世とこの世があり、天国と地獄があり、神と鬼が同居するなら、あの世の地獄にいる鬼が、「それでは、これはどうだ!」と言っているようである。