|
第六章(Part 1) 怨敵崩御 応安七年(1374年)後光厳天皇が崩御した。 「必ずや、王権を纂奪(さんだつ)してみせようぞ」 貞子に言い放った義満の怨敵がこの世からいなくなったのだ。 そしてその憎しみの対象が、北朝第四代後円融天皇になった第二皇子の緒仁(おひと)親王に変わることで増幅した。 緒仁と義満は従兄弟関係にあり、しかも同年齢の二十歳であった。 義満の母良子と緒仁の母崇賢門院仲子とは姉妹関係であり、共に藤原家の女人であった。 「わしは、武家の頭領であり、しかも藤原摂関家の血も、清和天皇の血も引き継いでおる。なにゆえ緒仁が天皇でなければならないのか?」 貞子に訊いた義満がはじめて皇位簒奪を意識したのがこの年であった。 後光厳天皇の殯(もがり)が明ける応安八年(永和元年1375年))を待たずして、緒仁親王は後円融天皇として即位した。 後光厳天皇は精力も絶倫であったが、文人としてもその名を馳せ、和歌、管弦の道に精を出し、延文四年(1359年)に藤原信秋から笙(しょう)の秘曲の伝授を受け、それを伝えたのが第二皇子の緒仁であった。 その笙の繋がりが第二皇子を帝にしたのである。 “坊主憎けりゃ袈裟まで憎い” 義満の憎しみは、その後、後円融天皇に向けられることになる。 殯が明けた永和元年に築かれた後光厳天皇陵は、深草北陵(法華堂)という珍しいものであったが、それは義満が時の管領細川頼之に命じて、朝廷に圧力を加えた結果である。 義満が徐々に権力を掌握し始めた時期であった。 「天狗は室町第でおとなしくしているのであろうか?」 後円融は后の厳子(げんし)に訊いた。 厳子は貞子の妹で、義満の動向を常々貞子から訊いていた。 貞子は義満より十三歳も年上であったが、義満が春王の頃からの仲であり、義満の精力溢れる若さに溺れていたことを厳子も知っていた。 同い年でありながら、帝は病弱でいまだに乳離れしていないことに不満を抱いていた厳子は義満に興味を持っていた。 後に、帝の子を孕みながらも、帝に刀で折檻される事件が起きるとは、そのときの厳子には分かるすべもなく、まだ見ぬ天狗に密かな思いを馳せるだけであった。 「わたしは、天狗の顔をまだ見たことがございませぬ」 返事する厳子の胸の内を知らぬ帝は、まさか自分が狂い死にする運命にあるとは思いもよらずに聞いていた。 |