第七章(Part 1) 大嘗祭の夜の閨事

後円融天皇の即位式である大嘗祭が永和元年(1375年)十月二十二日に伊勢神宮で執り行われることが決まった。
征夷大将軍でありながら、まだ中納言であった義満は従三位であったから、天皇即位式の大嘗祭には直接参列できない。
義満はこのことにも恨みを抱き、その後、管領細川頼之を解任した義満は強引なやり方で永和六年(1380年)には二十五歳で従一位に昇り、翌弘和元年(1381年)には内大臣、同二年には左大臣、そして遂に武家から初めての太政大臣にまで昇りつめることになる。
もともと官位に執着がなかった義満であったが、後円融天皇の即位式の時に抱いた屈辱感が、義満をして太政大臣延いては自らの子を天皇にし、治天の君(上皇)の位まで目指さしめたのである。
武家としては破格の出世で、祖父の尊氏は正二位大納言、父の義詮も、死後従一位左大臣を賜った程度である。
大嘗祭の行われる伊勢神宮で義満ははじめて帝の后である厳子と顔を合わせた。
五十鈴川に架かる橋の上で帝の輿が右側を通り過ぎて行く際に、帝の後の輿から顔を出した厳子は後ろに控えている義満の視線と合ったのである。
その時、義満の従兄弟である緒仁こと後円融天皇は満面の笑みを輿の中で浮かべていた。
『今に見ておれ、このわしが日本国王になってみせる!』
実際にそれから十九年後の応永元年(1394年)、四十歳で将軍職を我が子の義持に譲った義満は出家し天山道義と称し、法皇となって天皇家の纂奪を狙うのである。
貞子も後光厳天皇の女御として即位式に参列していた。
直接参列できない義満の序列は貞子よりも低かったのである。
その夜、貞子は厳子を伴って義満の寝室に潜り込んできた。
貞子と二十歳も違う厳子は輝くような美しさであった。
「そなた達は本当に姉妹なのか?」
義満は信じられない様子であった。
「腹違いの姉妹で、藤原信秋の子種であることは事実です」
貞子が答えたら、横で厳子も恥ずかしそうに頬を赤めながら頷いて義満を見つめた。
その表情はたとえ彼女が帝の后であろうと抑えることが出来ない程強烈に、義満の欲望を突き上げるものだった。