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(その三)自殺と死期 死を知らない他の生き物にとって、死ぬということは自然死することに他なりません。 死を知っている人間にとって、死ぬということは自殺することに他なりません。 自然死は自殺に他なりません。 それ以外の死は他殺に過ぎない、つまり、本来の死の在り方ではない。 ところが、わたしたち人間は病気で死ぬと思っています。 病死は、事故死と同じ他殺です。 他殺には必ず殺人犯がいる。 交通事故で死ぬのは車が犯人です。 病死で死ぬのは病原が犯人であり、それに手を貸している医者も共犯です。 主犯が医者であり、病原が共犯と言った方がいいでしょう。 病原も生き物ですから、自然の食物連鎖の法則の一環として存在意義がある筈であり、彼らを害敵とみなすのは人間の勝手な思いであり、それを唆す医者が張本人です。 山から下りてきた動物が田畑を荒らしたり、人間を殺したりするのに対して、人間(医者)は彼らを害敵とみなすが、彼らは単に食べ物を探しに来たに過ぎず、食物連鎖の法則に基づいた行為です。 殺しは食べる行為に過ぎず、自然社会での殺し・殺される行為は、食う・食われる行為に過ぎません。 だから、自然の中で生きる生き物には、食う・食われる行為があるだけで、死の概念はないのです。 死の概念を持った人間にとっての死とは、自然死、つまり、自殺しかないのです。 自然死する生き物は死期がわかります。 自然死は自殺に他ならないからです。 病死や事故死で死ぬ生き物は死期がわかりません。 病死や事故死が他殺に他ならないからです。 自殺と他殺の決定的な違いは死期の自覚の有無にあるのです。 では死期の自覚はどうしたら可能か。 アフリカにいる野生のアフリカ象は、死期を悟ると群れを離れると言われていますが、インドで人間のために労働するインド象はそうしないのは何故でしょうか。 死ぬとは母なる大地・地球に戻ることであり、群れを離れて独りの世界に行くのは、その準備のためなのです。 独りで母なる大地・地球から生まれて来て、独りで母なる大地・地球に戻る(死ぬ)。 誕生した限りは必ず死ぬという人生の唯一の確定事(約束事)。 そのあいだに、生きるという不確定事がある。 はじめとおわりは必ず確定して、あいだだけが不確定。 それは独りの世界で生きていると自覚していないからです。 独りで母なる大地・地球から生まれて来て、独りで母なる大地・地球で生き、独りで母なる大地・地球に戻る(死ぬ)。 はじめも、あいだも、おわりも、人生はすべて確定事である絶対条件は、独りで生きていると自覚することです。 はじめの誕生と、おわりの死は、独りで経験するもの。 このことは、人間誰でもわかっている。 あいだの生は、他人と一緒に生きている。 ここが最大の錯覚であり、結果、病死や事故死といった他殺で死ぬから、死期がわからないのです。 はじめの誕生も、あいだの生も、おわりの死も、独りで経験するもの。 このことを自覚できれば、死の本質とは死期がわかる自殺であることが理解できます。 あいだの生は、他人と一緒に生きている。 つまり、不確定事の過去・現在・未来に想いを馳せて生きている。 あいだの生も独りで経験するもの。 つまり、確定事の『今、ここ』で生きている。 自然死は無意識の自殺であり、無意識の中で誕生・生・死という円回帰運動をしているものの死に方です。 全体感で生きている(運動している)ものの死に方と言ってもいいでしょう。 従って、意識の自殺とは、意識の中で誕生・生・死という円回帰運動をして いる者の死に方です。 部分観で生きている(運動している)者の死に方と言ってもいいでしょう。 わたしたちが生きている世界(宇宙)では「全体と部分の相対性の法則」が働いている、と拙著「夢の中の眠り」でお話しました。 平たく言えば、“すべてのものは「全体」であり且つ「部分」でもある”という法則であり、“地球は太陽の部分であるが、人間の体の全体でもある”、“人間の体は地球の部分であるが、心臓の全体でもある”といった具合に、すべてのものは「全体」であり且つ「部分」であるわけです。 心臓が一日24時間/一年365日無休で動いているのは「全体」としての心臓だからであり、地球が一日24時間/一年365日無休で動いているのと同じメカニズムだからです。 一日24時間/一年365日無休で動いているものは「全体感」という無意識のことであります。 一日24時間/一年365日無休で動いていないものは「部分観」という意識のことであります。 わたしたちの生き方を考えてみると、心臓や他の内臓のように一日24時間/一年365日無休で動いているものと、目や耳や鼻や口(舌)や手足(皮膚)といったいわゆる五感のように動いている時(目が覚めている時・・・)と休んでいる時(眠っている時・・・)とがある一日24時間/一年365日無休でないものとがあります。 一日24時間/一年365日無休のものは無意識つまり「全体感」で動いています。 一日24時間/一年365日無休でないものは意識つまり「部分観」で動いています。 「全体感」つまり無意識で生きているものは、無意識の死に方つまり自然死します。 従って、「部分観」つまり意識で生きているものは、意識の死に方つまり自殺するのが当たり前なのです。 ところが、わたしたち人間は「部分観」つまり意識で生きているのに、病死や事故死といった無意識の他殺で死んでいる。 これは道理に合わない死に方です。 独りで生れ、独りで生き、独りで死ぬ。 従って、死とは自ら死ぬ、つまり、自殺以外にない。 そのことを意識していないのが自然死であり、意識しているのが自殺です。 意識していないとは全体感で生きていることであり、意識しているとは部分観で生きていることです。 自我意識(エゴイズム)とは部分観のことであり、海上に浮かぶ島や大陸が自我意識(エゴイズム)であり、海底で繋がっている地球そのものを感じ取ることが全体感に他なりません。 島や大陸には浮き沈み、つまり、誕生・生・死はあるが、海底の地球には何ら変わりはない。 摂氏100度で水蒸気という気体から水という液体に変化することを誕生と言い、摂氏100度と0度の間の水という液体の状態維持が生であり、摂氏0度で水という液体から氷という固体に変化することが死であるが、水蒸気という気体状態でも、水という液体状態でも、氷という固体状態でも、水つまりH2O という分子化合物には何ら変わりはない。 つまり、誕生・生・死という現象は部分観の問題であって、全体感には無縁の問題なのです。 独りで生れ、独りで生き、独りで死ぬ。 従って、死とは自ら死ぬ、つまり、自殺以外にないわけです。 自然死も自殺の一形態に過ぎず、誕生して生を受けたものはすべて自殺するのが当たり前です。 わたしたちは自殺という言葉を否定的に捉えている。 自殺は無意識死と意識死の二つがあり、自然死を無意識死、自殺を意識死と言い換えた方がいいかも知れません。 従って、全体感で生きることを無意識生、部分観で生きることを意識生と言い換えた方がいいでしょう。 無意識の誕生・生・死。 意識の誕生・生・死。 死の概念を持つ生き物・人間は意識の誕生・生・死をする。 死の概念を持たない他の生き物は無意識の誕生・生・死をする。 人間はみんな自分のことをそこそこだと思っています。 だから自殺もせずに生きてゆけるのです。 死の概念を持つ人間が自殺を否定して生きているのは、自分のことをそこそこだと思っていることに他なりません。 自殺を否定して生きると、死が怖くなるのは当たり前です。 自殺を肯定してはじめて、死が怖くなくなるのです。 自殺を肯定するには、自分はそこそこだと思えない謙虚になることであり、自分はそこそこだと思うことは地球に対する傲慢な態度に他なりません。 意識して生きているわたしたち人間にとって、自殺が唯一の死の形態であると看破した者こそ謙虚な生き方をするのです。 死にたいする態度、それは自殺しかありえない。 死期とはその態度に対する褒美に他なりません。 生きている不安は死期がわからない不安であることに気づけば、死期を知るということは、生きる上における大いなる福音、つまり、“Good News”であることがわかるのです。 自殺と死期とは、努力に対する報酬に他なりません。 |