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(その五)死ぬことと見つけたり いくら人生を充実した楽しいものにしても、最後にやってくる死の問題を自分の手で解決できない限り、人生は空虚なものになってしまいます。 “死んでやる!” 艱難辛苦に苛まれた人間が窮して最後に吐く言葉です。 乳飲み子が誰に教えられるわけでもないのに、母親の乳首をしゃぶるように、“自分もいつか必ず死ぬ”という死の概念を知った人間は誰でも、生きるのに窮すると死ぬことを考える。 これは最早本能だと認めざるを得ません。 生きることの苦痛が極致に達すると本能的に死を志向する。 死が最期の切り札だからです。 では、スペードのエースを所有しているのは誰でしょうか。 スペードのエースを所有しているのは他ならぬ自分である筈なのに、所有することを許されていないのが、この世という人間社会です。 自分の命を自分で絶つ権利を許さないのが、死の概念を知った、わたしたち人間社会です。 死を論ずることはタブーだ。 死は恐ろしいものだ。 自殺したら地獄に落ちる。 一体誰が、こんなデタラメなことを、わたしたち人間社会に押し付けたのでしょうか。 人生というゲームをしている当人がスペードのエースを持つことが許されないのでは、これは最早ゲームではありません。 スペードのエースという最期の切り札(カード)を切る者が、人生というゲームをしている当事者です。 死を論ずることはタブーだ。 死は恐ろしいものだ。 自殺したら地獄に落ちる。 こんなデタラメなことを信じ込んで、自分の人生というゲームの結論に際して、スペードのエースを切ることが出来ない。 だから、わたしたちは悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥っているのです。 自ら命を絶つという権利を我が手に取り返すことです。 では、 死をタブー視するのは何故でしょうか。 自殺を罪悪視するのは何故でしょうか。 わたしたちは、死に対する間違った観念を持っているようです。 “自分もいつか必ず死ぬ” という間違った観念を持っている。 死の概念の正体に他ならない。 概念とは、間違った観念に他ならない。 考え方とは、間違った在り方に他ならない。 知識とは、間違った知恵に他ならない。 つまり、知識とは、 “生が好くて死が悪い”という考え方です。 “オスが好くてメスが悪い”という考え方です。 “善が好くて悪が悪い”という考え方です。 “強が好くて弱が悪い”という考え方です。 “賢が好くて愚が悪い”という考え方です。 “富が好くて貧が悪い”という考え方です。 “幸福が好くて不幸が悪い”という考え方です。 “天国が好くて地獄が悪い”という考え方です。 “健康が好くて病気が悪い”という考え方です。 “神が好くて悪魔が悪い”という考え方です。 “支配者が好くて被支配者が悪い”という考え方です。 つまり、知恵とは、 “生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “オスとメスは同じで、メスが本質であり、オスはメスの不在概念に過ぎない”という在り方です。 “善と悪は同じで、悪が本質であり、善は悪の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “強と弱は同じで、弱が本質であり、強は弱の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “賢と愚は同じで、愚が本質であり、賢は愚の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “富と貧は同じで、貧が本質であり、富は貧の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “幸福と不幸は同じで、不幸が本質であり、幸福は不幸の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “天国と地獄は同じで、地獄が本質であり、天国は地獄の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “健康と病気は同じで、病気が本質であり、健康は病気の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “神と悪魔は同じで、悪魔が本質であり、神は悪魔の不在概念に過ぎない”という在り方です。 “支配者と被支配者は同じで、被支配者が本質であり、支配者は被支配者の不在概念に過ぎない”という在り方です。 わたしたち人間の考え方は、すべて間違った観念に過ぎない。 わたしたち人間は、すべて間違った存在である。 だから、 死をタブー視するのです。 自殺を罪悪視するのです。 病気になって苦しむ日々。 お金がなくて苦しむ日々。 人との軋轢で苦しむ日々。 思い通りにならない日々。 仏教で言う四苦八苦。 生きる苦、老いる苦、病の苦、死の苦、更に、愛する者と別離する愛別離苦、怨み憎しむ者と出会う怨憎会苦、求めて得られぬ求不得苦、肉体が求める本能欲に苛まれる五陰盛苦の四苦八苦は、順風満帆の人生を送っている人でも日常茶飯事の心情であり、まさに、考える能力を得た人類の宿命であります。 “いや!わたしは何も大した苦労がなく、至ってルンルンの人生を送っている!”と主張される方は、その感性の鈍感さを嘆くべきであります。 苦を感じるのは、痛みや快さを感じるのと同じで五感能力の問題なのです。 苦を感じないのは、痛みも感じない替わりに快さも感じないのです。 快さを感じるのは、痛みや苦を感じる能力があるからです。 わたしたち人間、特に現代人の意識が眠っている最大の原因が五感能力の欠如にあり、昔に比べて情報過多の現代社会は苦の原因で氾濫している社会と言っても過言ではなく、そんな世の中での自己防衛策が鈍感になる、つまり、意識を眠らせることに他ならないのです。 それなら、幸福を求めてはいけません。 なぜなら、不幸を避けているからです。 ところが、“いや!わたしは何も大した苦労がなく、至ってルンルンの人生を送っている!”と主張される方でも幸福は求めておられる筈です。 まさに、“幸福が好くて不幸が悪い”と思っておられる、つまり、好いとこ取りをされておられるわけで、これは絶対不可能な考え方なのです。 “幸福と不幸は同じで、不幸が本質であり、幸福は不幸の不在概念に過ぎない”。 これが実現可能な在り方なのです。 結局の処、 生と死の問題がこういった矛盾の底流にあるのです。 “生が好くて死が悪い”という考え方で、意識を眠らせて鈍感に生きるのか。 それなら、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる人生から逃れることは出来ません。 “生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”という在り方で、意識を覚醒させて敏感に生きるのか。 それなら、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる人生とは無縁の人生を送ることが出来ます。 それは自分独りで決めるもので、他人には全く関係ありません。 生きることがますます不安になっている現代社会。 その原因は不確定要素がますます増えているからに他なりません。 知る必要性のない事柄まで否応なしに入ってくる情報化社会は、わたしたち人間の分裂症状をますます重くさせています。 知性を得て考える能力を持った人間は必ず分裂症状に陥ります。 “人生は思い通りにはいかない!”のは、考えていることと現実との間にギャップが必ずあるからです。 「考え方」と「在り方」とは違うのです。 「考え方」はすべて自分中心の希望的観測に過ぎません。 つまり、過去・現在・未来という時間に束縛されている。 これを水平世界の時間、量的世界の時間と呼び、いわゆる、わたしたちが「時間」と思い込んでいる実時間のことであります。 「在り方」は宇宙全体の法則に則した、自分という意識(自我意識=エゴ)のない状態のことであります。 つまり、『今、ここ』という世界に存在している。 『今、ここ』の『今』を垂直世界の時間、質的世界の時間と呼び、「考え方」の実時間に対して、「在り方」の虚時間のことであります。 わたしたち人間だけが、「考え方」と「在り方」の二元論世界観で生きています。 つまり、実時間と虚時間の二種類の世界で生きています。 他の生き物たちは、「在り方」一如の一元論世界感で生きています。 つまり、虚時間の世界だけで生きています。 わたしたち人間だけが、死の概念、つまり、“自分もいつか必ず死ぬ”と思い込んでいます。 “いつか”は未来のことです。 つまり、実時間です。 “必ず死ぬ”のは『今』のことです。 つまり、虚時間です。 実時間と虚時間が混在している世界観こそが二元論世界観に他なりません。 しかも虚時間の『今』が実在するもので、実時間の「未来」は未だ実在しないものなのに、実時間の方だけに目をやる、つまり、好いとこ取りの相対一元論の世界観で生きているのが実態であります。 わたしたち人間だけが分裂症状に陥っている原因がここにあります。 不確定要素が増えれば増えるほど分裂症状が重くなる。 そして、“自分もいつか必ず死ぬ”という死の恐怖のメカニズムがますます強く作動するわけです。 自我意識(エゴ)の存在し得ない「在り方」一如の一元論世界感で生きている他の生き物たちは、ただ“死ぬ”だけです。 自我意識(エゴ)という「考え方」と「在り方」の二元論世界観で生きているわたしたち人間が、“自分もいつか必ず死ぬ”と考えています。 「考え方」と「在り方」の二元論世界観を超えた三元論世界観で生きると、“いつか”という不確定要素が落ちて、“自分は必ず死ぬ”と考えるようになります。 つまり、自分の命は自分で絶つと決意する、そのとき、死の恐怖が雲散霧消するのです。 自分の命は自分で絶つと決意することで、人生の不確定要素が確定要素に変貌する。 生きるということは不確定要素の中を流れることであります。 平たく言えば、静止と運動の相対的繰り返し行為に他ならない。 死ぬということは不確定要素が確定要素になることであります。 平たく言えば、絶対静止することに他ならない。 運動には絶対運動というものはなく、静止と運動の相対運動しかないように、生には絶対生というものはなく、死と生の相対生しかないのです。 静止には絶対静止しかないように、死には絶対死しかないのです。 死が随所にある所以です。 不確定要素とは相対運動の中にあり、相対生の中にあるものです。 確定要素とは絶対静止の中にだけあり、絶対死の中にだけあるのです。 ところが、“自分もいつか必ず死ぬ”という死の概念を持ったわたしたち人間は、死を不確定要素の中に閉じ込めているのです。 死を不確定要素の中に閉じ込めて、生を確定要素の中に閉じ込めようとする。 これは土台無理な話であります。 生きることは不確定要素の中を流れる危険な状態に他ならない。 死ぬことが確定要素の中に静止する安心立命な状態に他ならない。 わたしたち人間も生き物の一つであり、そのことを本能的に知っているのです。 だから、“いざとなれば死ねばよい”ということを潜在意識下で知っているのです。 自分の命は自分で絶つと決意することでしか、死の概念を持った人間の生きる道は無いのです。 まさに、 “死ぬことと見つけたり”であります。 |