(一)

それは江戸時代の大店の屋根だろうか。
一面の紺碧色の艶っぽい瓦が眼下から迫ってくる。
鳥瞰とはまさにこういう光景のことを言うのだろうか。
わたしは、セピア色の夜空を飛んでいるのだ。
両腕を一所懸命上下すると、自分の体が浮いていき、眼下に見える群青の瓦の海が遠ざかっていく。
ヒマラヤ山脈を冬越する鶴の想いがよくわかる。
命がけで羽を上下するが、なかなかヒマラヤの頂を越えることはできず、眼下に見える紺白の岩肌が冷たく笑って話しかけてくる。
「さあぼくの息吹をかけてやろう、それでも、ぼくの上を越えていけるかい?」
サハラ砂漠から運ばれてきた熱帯モンスーンの雨だけをインド亜大陸に落して、強烈な風となってヒマラヤの岩壁に吹きかけてくる。
鶴たちの三角形を成した群れの尖った先で、強烈な風に楔を打ち込んで、一気にヒマラヤの頂を越えようとするが、一回の挑戦で成功することは滅多にない。
強烈なモンスーンの風が、三角形の群れを蹴散らしてしまう。
遠くからその光景を眺めている一羽の巨大な犬鷲が、ここぞ絶好の機会とばかりに、群れから大きく逸れた一羽の鶴に、望遠レンズになった鋭い目でズームする。
群れから逸れた一羽の鶴の哀しい宿命が現実となる瞬間が迫ってきたのである。
一瞬の中に巨大な犬鷲の餌食になる仲間に想いを馳せながらも、鶴たちは必死にヒマラヤの頂を越えようとする。
だから、越える価値がある。
“この山越せば、花さかり”には命がけの挑戦が付きものなのである。
『今、ここ』を生きる者には、過去も未来も現在すらもない。
あるのは『今、ここ』だけだ。
わたしは、命がけの挑戦を企てたが、やはり一回の挑戦では土台無理だった。
エヴェレストの頂にも似た大店の巨大な屋根を越えようとする一回目の挑戦は、儚くも失敗に終わった。
『墜落する気分とはこんなものだろうか?』
墜落していく自分を眺めている自分がいることが、その瞬間知ったが、その束の間、気づきの感動は忘却の彼方に去ってしまった。
わたしは夢から目覚めた。
子供の頃から、鳥になって空を飛ぶ夢をよく観るが、情景は必ず、巨大な屋根を越えていく、姿の見えない自分だ。
夢というものは不思議だ。
観ている自分はいるが、主人公である自分の姿が見えないのだ。
鳥になって飛んでいるつもりなのだが、自分の羽の先や足は見えても、鳥の姿は一切見えない。
夢では自分の全容は観えないらしい。
だから、本当の自分が分からず終いで一生を終えてしまうのだろうか。
『ああ!墜落しなくてよかった!』
夢から覚めたわたしは一息ついて、現実の世界に徐々に戻っていくが、まだ、現実に馴れていない所為か、自分の居場所が明確でないままだ。
セピア色の夢の世界から、総天然色の現実の世界に戻っていくに連れて、エゴの自分の世界が蝋の炙り出しのように浮きぼりにされていく。
わたしは60才で定年退職した会社員だったことが段々思い出されてくる。
団塊の世代で、猛烈社員であることが勲章のように信じてきた世代だ。
昨日が60才の誕生日で、定年退職日でもあったことが、次第にわかってきた。
還暦を迎えた60回目の誕生日が、一生の節目になる時代は終わって、第二の人生のスタート点になる本格的な時代の幕開けになって、団塊の世代の第一線を引く時代と符号するのである。
人生が二つのシフトになる時代到来だ。
人生一回限りの時代は遠い昔の話だ。
第二の人生がある時代の到来だ。
やり直しが利く人生が可能な時代である。
人生一回限りの時代と、第二の人生がある時代とでは、生き方は大きく変わるのは間違いない。
人生一回限りの時代では、死ぬまで右肩上がりの生き方をするのが理想であるが、問題が一つある。
死という最期に及んで墜落する。
それならば、折り返し点のある人生を送れば死という最期に収斂する、と考え抜いた人間がいる。
死という最期に及んでも墜落せずに、安全着陸できる。
だが、これにも問題が一つある。
折り返し点の設定が極めて難しくほぼ不可能だ。
人生を変えることが可能な運命と、人生を変えることが不可能な宿命の境界線がつけられなくなる。
第二の人生がある時代では、20代後半から第二の人生の道を助走しておかなければならないと未来学者は言う。
わたしは第二の人生がある道を選んで生きてきたつもりだが、ふと気がついてみると、一回限りの人生を歩いてきたようである。
どうしてそんな錯覚の人生を送ってきたのか、この歳になってやっと解ってきたような気がする。
その答えのヒントは夜観る夢の中にあった。
わたしは、鳥になった夢を観ている人間ではなく、人間になった夢を観ている鳥だったのである。
夜間観る夢が現実で、昼間観ている現実が夢であったのだ。
わたしは鳥になった夢を観ている人間ではなくて、人間になった夢を観ている鳥だったのである。
そうならば、これまでの四苦八苦の人生が納得できるのだ。
わたしはいつ死ぬかわからないから、取り敢えず、鳥が人間になった夢の第二の人生、否、第二の鳥生の一歩を進めることにしよう。
わたしは一度結婚をしたが、妻には先立たれてしまい、子供はいない。
両親はこの世にいないし、二人の兄がいるが、絶縁状態になって既に20年以上が経っているから、まさに天涯孤独の身である。
生まれて来たのは独り、死んで行くのも独りの一生は当たり前の話だが、生きているのも独りの一生は稀だろう。
実はそこに大いなる真理があるのだが、そのことに気づくには、もう少し時の経過が必要だった。
わたしは会社員生活に埋没していたから、会社が家みたいなものであった。
それが定年退職になって、家のつもりの会社にも行けない身は、まるでホームレスになったような気分だ。
青いテントの家の代わりに、もうすこしましな家に住むホームレスのようでもある。
『人生80年なら、あと20年どうして生きていこう?』
鳥になった夢から覚めたわたしを襲って来たのは、いっそ夢の中で墜落死した方がましだと思えるほど過酷な現状であった。
人生が八方塞がりになってしまった人間の最後に採る道が自殺だが、その気持ちが何だか理解できる。
だが、自殺する勇気も度胸も、わたしにはない。
ただ生きて行くしかなさそうだ。
『こんな時、鳥だったらどんなに素晴らしいことか・・・』
そう思うと居ても立ってもいられなくなって、近くの図書館に行って鳥の一生を調べてみることにした。
鳥の最長寿命はコアホウ鳥の33年という記録があるから、最長寿命は40年ぐらいだろう。
人間の最長寿命は120歳だから、鳥は人間の三分の一の鳥生を送るのが平均らしく、およそ10数年が鳥の平均寿命だと言えることがわかった。
『わたしが若し鳥だったら、今はちょうど10歳ぐらいかな?いや7歳ぐらいかな?』
そんな埒もない考えをしていても、わたしはやはり生きているのだ。
夢中で図書館の机に向かって本を読んでいたため、机の向かい側にいた若い女性が、自分を見ていることに気がつかなかった。
彼女はずっとわたしを見ていたようだ。
彼女のことに気づいたわたしの表情に合わせて微笑みかけてきたからだが、それが如何なる意味を持っていたのか、その時、わかるべくもなかった。
彼女は30代前半の年齢ではないかと、わたしの拙い女性経験から想像をしていたが、後でわかったことだが、彼女はその時40才だった。
わたしとちょうど20才違う女性などまったく無縁の世界の人間と思っていたが、彼女には何か親近感を覚えた。
その理由(わけ)は、わたしが今わの際になってはじめて気づくことになるのだ。
彼女に対する想いに引き摺られながらも、わたしは彼女を後にして先に図書館を出た。
この後、何の予定もなく、誰も待っていない冷たい空気の家に帰るだけだったことを思い起こすと、下手な格好をつけて、図書館を後にしたことに少々後悔した。
『俺はいつもこういう調子で生きてきたから、気がついたら、周りに誰もいなくなっていた』
後悔というより、自責の念と言った方が、本当の自分の心情を吐露しているのかもしれない。
図書館で出会った女性のことなど疾うの昔の出来事だと自分に言い聞かせていたが、ひょんなことから、彼女のことを意識せざるを得ない出来事が起こるのである。
しかも、その出来事は現実の世界ではなく、夢の世界であったから、話は複雑になる。
記憶が忘却された時、すなわち顕在意識から潜在意識に沈んだ頃に、眠りの中で記憶が再現するのが夢のメカニズムだから、今日会った人間の夢を観ることは有り得ない。
精々一週間ぐらい後で夢の中に登場することなら有り得るが、今日会ってすぐに夢の中に登場するのは、よほど衝撃の強い記憶でないと起こり得ない。
「昨日、図書館でお会いしましたね?」
彼女が親しく話し掛けてくる。
朴訥なわたしは、気の利いた一言さえ出せない。
夢を鑑賞している自分が地団駄踏んでいる。
夢の中に登場している自分などいなくて、彼女が出演している夢を鑑賞している自分は、彼女と会話できるわけがない。
気の利いた一言など言えないのは当たり前だが、そのことに気づかないから地団駄踏むわけだ。
すると、夢の舞台が突然変わった。
将又、昨日の夢が登場して、わたしは屋根の上を飛んでいて、屋根が透けて見え、大店の中に彼女がいるではないか。
『なんとかしなければ・・・』
焦る自分がいるのだが、残念ながら、自分は鳥であって人間ではない。
『なんとかしなければ・・・』
すると突然、わたしは人間になって彼女の前に立っていた。
すると突然、わたしは夢から目覚めた。
夢という代物は、まさに、見果てぬ夢だ。
果てる前に目が覚める。
目覚めの瞬間は、夢の世界にいるのか、現実の世界にいるのか、その境界線がはっきりしない。
『わたしは鳥になった夢を観た人間なのか?』
『わたしは人間になった夢を観た鳥なのか?』
わたしはわけがわからなくなった。
現実の世界に戻ったわたしは、為す術もない。
夢の世界にいるわたしは、まだ何かできそうに思う。
現実の世界よりも、夢の世界の方がよりリアルだというのである。
実像と虚像は逆さまになる。
レンズの原理が教えてくれる。
実在とその不在概念は逆さまだというわけである。
わたしは、“健康が好くて、病気は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“幸福が好くて、不幸は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“強者が好くて、弱者は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“賢者が好くて、愚者は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“富める者が好くて、貧しき者は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“天国が好くて、地獄は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“神が好くて、悪魔は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“成功者が好くて、失敗者は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“王が好くて、奴隷は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
わたしは、“光が好くて、暗闇は悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
だから、
わたしは、“生きることが好くて、死ぬことは悪い”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきた。
しかし、実在とその不在概念は逆さまだと言う。
わたしは、“生きることが実在で、死ぬことは生きることの不在概念に過ぎない”ものだと疑うことなく信じて、これまで生きてきたが、一体どちらが実在で、どちらがその不在概念なのか、わからなくなってしまった。
いずれにせよ、このふたつは逆さまなのである。
夢の中で鳥になった人間が、わたしなのか。
現実の中で人間になった鳥が、わたしなのか。
この逆さま現象が、わたしに唯一教えてくれているのは、一方が実在するもので、他方がその不在概念、つまり、実在しないものだということだ。
鳥になった人間が実在するのか、実在しないのか。
人間になった鳥が実在するのか、実在しないのか。
「昨日、図書館でお会いしましたね?」
生きることに意義を失っていたわたしは、彼女が親しく話し掛けてくれた世界が実在するのか、実在しないのか、この問題に決着をつけることを生きがいとして見つけたのである。
人間の一生、否、鳥生もどこでどうなるのか、まさに、暗闇の中を手探りする盲目のようなものである。
盲目がなんで暗闇の中を手探りする必要があるのだ。
目の見える者が暗闇の中を手探りするのは当たり前だ。
盲目が光の中を手探りするのも当たり前だ。
ところが人生は、盲目が暗闇の中を手探りするようなものなのだ。
逆に言えば、目の見える者が、光の中を手探りしているようなものだとも言える。
見えているものが見えず、見えていないものが見える。
これが真理だとするなら、真実や事実とは、盲目や目開きの一面性に過ぎないことになるらしい。
生きる希望を失っていたわたしが、ひょんなことから、生きがいを見出せることができたのは確かである。
それはたとえ、夢の世界の話でも、生きがいのない生に比べたら、この上ない悦びには違いなかった。
「そうですね、昨日図書館でお会いしましたね」
わたしは勇気を奮って彼女に返事してみた。
すると、彼女はわたしの手を握ってきたのである。
人間の手の感触を思い出したその瞬間(とき)、わたしは幻想の世界に迷い込んでしまった。  ー 続く ー