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(二) 「昨日、図書館でお会いしましたね?」 彼女の言葉にわたしは真摯に応えた。 「そうですね、昨日図書館でお会いしましたね」 と言いながら、わたしは差し出してきた彼女の手を握り返した。 わたしは、幻想の世界に迷い込んだことを何気なく感じていたにも拘らず、あとで気がついたことだが、現実の世界では時間は流れているのだが、幻想の世界では時間は止まっていたのである。 彼女が言った「昨日」という言葉には何の意味もなかったのだ。 その証明が、彼女の差し出した手にある。 その証明が、わたしが差し出した手にある。 わたしのゴツゴツした手と彼女のすべすべした手がエロチックに交わっているのだから、同じ空間を共有しているはずなのに何故か隔絶感がある。 『この感触には覚えがある・・・』 鑑賞しているわたしが思う。 だが、その意図が相手に伝わらない。 わたしは彼女と交わったゴツゴツした手に思いきり力を入れてみた。 すると、彼女の方も力を入れてくる。 現代人間社会では以心伝心の経験なんて疾うの昔に忘れ去られてしまい、セックスレス夫婦が当たり前の訳のわからない社会になってしまっている、そんな中で、一目惚れがすぐセックスに連鎖するミラクルな経験が感触として表象するのであるから、まさに長いようで短い人生の中で滅多に味わえない感動の一瞬であった。 わたしは中学生の頃に兄に連れられて観に行った二つの映画のことを思い出した。 幻想の中でも追憶が可能なのである。 幻想という夢の正体は記憶であるのに、記憶の表象である夢の中で追憶するという不思議な現象だ。 「ベンハー」という映画がはじめて感動を与えてくれた。 特に戦車競争の場面では、中学生のわたしの鳥肌がたった。 兄も隣の席で思わず、『ウォー!』と感動の叫びを発していたのを今でも憶えている。 正義が最後には必ず勝つことを教えてくれた映画だった。 そして・・・。 「ウエストサイド物語」というミュージカル映画だった。 ダンスパーティーで初めて出会ったトニーとマリアが人目惚れして、すぐに接吻をする、そして・・・・。 中学生なりに思ったものだ。 『本当に好きになった恋人同士なら、こんな風になるんだ!』 そして、その直後にわたしもそんな出会いを経験した。 甘酸っぱい経験は、人生の中にセピア色の追憶を残してくれるらしく、60才になった今でも懐かしい写真を見るような感傷に耽させてくれる。 しかし、現実はもっと泥々とした天然色だ。 たとえそれが幻想の世界であっても・・・・。 わたしはもう一歩が踏み込めない。 地団駄踏んでいるのはわたしだけで、彼女は淡々としている。 下半身に電撃が走って、わたしは思わず足に力を入れてみた。 足下が眼下に見えたからだ。 すると、彼女の足も力を入れてきたのである。 「ええ!」 わたしは吃驚して自分の足下を眺めると、わたしのゴツゴツした曲がった足と彼女のふくよかでまっすぐ伸びた足がエロチックに交わっているではないか。 見えるものはみんなエロチックに交わっている。 だが、自分の意図が相手に伝わらない。 だが、自分の意図を相手が呑み込んでくれている。 眺めることのできるものはみんな思い通りになるのに、眺めているものはまったく思い通りにならない。 中学生の時に観た二つの映画がそのことを証明してくれたような気がした。 その瞬間(とき)、 わたしと彼女の関係がどうやら対等でないらしいことが、ようやくわかってきた。 鑑賞者のわたしは夢の中ではまるで奴隷だ。 主人は間違いなく夢の中の主人公である彼女の方だ。 五感の一部が強烈に働いている所為なのか、彼女の匂いも味もまるでしないのに、容姿とその肌触りだけがビンビン感じる。 「・・・、図書館でお会いしましたね?」 「そうですね、・・・図書館でお会いしましたね」 『今』では時間が欠落してしまっている。 「昨日」は所詮記憶だった。 すると突然、情景は一変して観馴れた屋根が眼下に拡がった。 ゴツゴツした曲がった足とふくよかでまっすぐ伸びた足が依然エロチックに交わっているではないか。 わたしは吃驚して視線を上げた。 わたしのゴツゴツした手と彼女のすべすべした手が当然エロチックに交わっているものと高を括っていたのに、まるで違う光景が目の前に拡がっている。 『この感触には覚えがある・・・』 同じ空間を共有しているはずなのに、何故か隔絶感があるこの感触の正体が目の前に展開していたのだ。 ゴツゴツした手は大きなオークル色の羽に変わり、すべすべした手は小さなレグホーン色の羽に変わり、無機的に交わっているではないか。 わたしは確かに人間のつもりだった。 彼女も確かに人間のつもりだったはずだ。 だが、お互いの肉体は明らかに鳥なのである。 「昨日、図書館でお会いしましたね?」 この一言が妄想というシナリオを捏造し、巧妙なシナリオは見事なドラマを製作していたのである。 映画の良否は原作にあるのではなく、シナリオにあることを如実に証明してくれた。 夢の良否も原作にあるのではなく、シナリオにあることを如実に証明してくれた。 それなら、現実の良否も原作にあるのではなく、シナリオにあることを示唆してくれているのではないだろうか。 まさに、これこそ、インスピレーションだ。 インスピレーションは現実の中では起こらないと聞いたことがある。 インスピレーションは夢の中でしか起こらないと聞いたことがある。 人生における宿命が原作であるとすれば、運命がシナリオということになるのではないかとわたしは思った。 それなら、人生の良否は宿命にあるのではなく、運命にあるということになるだろう。 宗教が主張する神など糞の役にも立たない証左ではないだろうか。 宗教が主張する神が与えるものが宿命であるからだ。 本当の自分が与えるものが運命だからだ。 自分ではどうすることもできない事柄はすべて神の所為にする。 それが宿命論だ。 自分でどうにかできる事柄はすべて自分の手柄にする。 それが運命論だ。 宗教が主張する宗教が所詮騙りである証明だ。 宗教を否定する科学が所詮騙りである証明だ。 まさに、これこそ、インスピレーションだ。 インスピレーションは『今、ここ』でしか起こり得ないのである。 インスピレーションは夢の中でしか起こらない証明かもしれない。 宗教と科学は同じ穴の狢だったのだ! 宗教も科学も『今、ここ』では実に無力な存在である。 過ぎ去ったことを悔やんで、未だ来ぬことで取り越し苦労をする人間だけに効き目があるのが宗教と科学なのだ。 『今、ここ』を生き切っている者には、宗教や科学は障害物になり得ても、恵みには決してなり得ない。 科学は宗教を否定することで誕生したものだと許かりわたしは思ってきたが、実は、宗教で人を騙るのが困難になった時代になったことが新手としての科学を生んだだけである。 所詮は、現実という名の映像の世界の他愛もない話だったのだ。 それなら、人生の良否を決定するのは、夢の中で為されるはずだ。 『そうだったのか!』 わたしは、殆どの人間がその人生を満足できないで死んでいく訳がやっとわかったような気がした。 わたしはいま60才だ。 60年生きてきたわけだが、その三分の一の20年は眠っていた。 更に、その三分の一の7年は夢を観ていた。 60年生きてきたといっても、人生の良否を決定づける重要な人生はたった7年しか生きておらず、自分が出演もしていない映画の人生を53年も続けてきて、しかも、その53年の映画の人生を自分の人生だと思い込んできたのである。 これでは、満足できる人生など送れるわけがない。 鳥になっている夢を現実の人生だと思い込み53年生きて、人間になっている現実を夢の人生だと思い込み7年生きてきたのである。 若くて張りのある彼女の手足が、老いさらばえたゴツゴツしたわたしの手足にエロチックに交わっている幻想を現実だと思い込み、大きなオークル色の羽と小さなレグホーン色の羽が無機的に交わっている幻想を夢だと思い込んできたが、実は逆さまだったのだ。 その瞬間(とき)、わたしは昨日の夢を思い出していた。 昨日の夢を思い出すということは、今観ているのは夢ではないはずなのに、彼女との間に隔絶感があるのは何故だろうか。 目が覚めているいわゆる現実の世界こそが隔絶感を齎す正体であることに、わたしはまるで気づいていなかったのである。 小学生の頃に学んだ宇宙の話は衝撃的だった。 光が一番速く走る乗り物で、1秒間に地球を七周半も走るという。 大阪から東京まで汽車で11時間掛かっていた急行「銀河号」に対して、超特急「こだま号」が登場した。 大阪、東京間を6時間半で走るから、うまくいけば、日帰り旅行ができるわけである。 日本初の国産飛行機「YS11号」なら、大阪、東京間を1時間半で飛べることを知ったわたしはパイロットになることを夢見た。 ところが、「光」は1秒間に地球を七周半も走るという。 そんな猛スピードの光で走っても1年掛かる遠いところに星があり、その星までの距離を1光年ということを知ったからだ。 更に、何億光年も掛かる気の遠くなるような世界が宇宙なのである。 ここまでは誰でも知っていることだ。 それなら、昼間の主人公、太陽はどうなのだ。 わたしが避けている暑苦しい太陽などなかったのだ。 わたしが見ていた暑苦しい太陽は8分前の過去の太陽だった。 『今、ここ』を生きているわたしの世界には太陽など実在していなかったのに、そんな太陽をわたしは忌み嫌っている。 それなら、夜間の主人公、月はどうなのだ。 わたしが恋焦がれている月は2秒前の過去の月だった。 『今、ここ』を生きているわたしの世界には月など実在していなかったのに、そんな月をわたしは恋焦がれている。 それなら、目の前にいる彼女はどうなのだ。 わたしを興奮させていた彼女は1億分の1秒前の過去の彼女だった。 『今、ここ』を生きているわたしの世界には彼女など実在していなかったのに、そんな彼女とわたしはエロチックに交わっている。 目の前にいてエロチックに交わっている彼女も過去の映像に過ぎないことに気づくのに、わたしは53年も掛かってしまったというのか。 まだそれでも気づくだけましではないか。 後悔先に立たずではない。 後悔後に立たずではないか。 わたしは命がけの挑戦を企てたが、やはり一回の挑戦では土台無理だった。 エヴェレストの頂にも似た大店の巨大な屋根を越えようとする一回目の挑戦は、儚くも失敗に終わった。 『墜落する気分とはこんなものだろうか?』 墜落していく自分を眺めている自分がいることが、その瞬間知ったが、その束の間、気づきの感動は忘却の彼方に去ってしまった。 わたしは夢から目覚めた。 子供の頃から、鳥になって空を飛ぶ夢をよく観るが、情景は必ず巨大な屋根を越えていく姿の見えない自分だ。 夢というものは不思議だ。 観ている自分はいるが、主人公である自分の姿が見えないのだ。 鳥になって飛んでいるつもりなのだが、自分の羽の先や足は見えても、鳥の姿は一切見えない。 夢では自分の全容は観えないらしい。 だから、本当の自分が分からず終いで一生を終えてしまうのだろうか。 『ああ!墜落しなくてよかった!』 そこで、わたしは清水の舞台から飛び降りてみることにした。 彼女が人間なのか鳥なのかを判明するには、彼女の化けの皮を剥がしてみるしかなさそうだ。 そこで彼女の上腕部から胸部を弄ってみた。 『なんと繊細な腕と柔らかい胸なんだ!』 わたしは感動していた。 すべすべとして冷やりとした肌触りは、まるで裸婦の腰の感触だ。 ざらざらとして温もりのある肌触りは、まるで裸婦の陰部の感触だ。 将又、わたしの下半身に電撃が走ったと思いきや、見世物小屋で映画の始まりを報せる40年前のブザーのような音がして、わたしは幻想の世界から目が覚めた。 「どうかなさいましたか?」 幻想の世界から現実の世界に舞戻ったはずなのに、彼女が依然目の前にいる。 わたしは咄嗟に足下を鳥瞰めてみた。 観馴れた屋根が眼下に拡がると高を括っていたが、ねずみ色の見馴れた地味なズボンが見えるだけだ。 『ああ、やっと普段の現実に戻ったんだ!』 一瞬ほっとしたが、彼女が錯綜状態にすぐに引き込んだ。 「どうかなさいましたか?」 普段の現実の世界にも彼女はいたのである。 『現実の世界も夢の世界も、結局は同じ世界だったんだ!』 太陽が杲杲と照っている昼間でも、深い井戸の中に入って空を見れば満天の星が見えるというのに、わたしの目には星ひとつ見えないのは、星がそこにいないのではなくて、厳然といるのに、わたしの目には見えていないだけだ。 月が晧晧と照っている夜間に観ている夢が、目が覚めることによって消滅するのは、夢がそこにいなくなったのではなくて、厳然といるのに、わたしの目には見えていないだけだ。 どうやら、彼女の正体が見えてきたようだ。 わたしはマンションに独りで住んでいるが、彼女は同じマンションの住人だった。 どこかで見た覚えがあったのだが、夢の世界のままで置いておきたかった深層心理が働いていたらしい。 歴然と自分の視界内に入っている光景でも、見る気がないものは記憶に残らないのは、その光景が実在しない所詮は映像である証明である。 では何故わたしは彼女という光景を記憶に留めておかなかったのだろう。 それが解せない。 好きと嫌いは同質のもので、まるで一枚のコインの裏表の関係にあるらしい。 人類の祖先であるアダムとイブが桃源郷である「エデンの園」を追放された理由は、善悪の判断をする禁断の果実を食べたからだという。 どうやら、桃源郷である「エデンの園」では好き嫌いという判断は一切ないらしい。 逆に言えば、好き嫌いの判断をすることが桃源郷である「エデンの園」から追い出される原因ともいえる。 彼女を敢えて記憶に留めていなかったのは、嫌いという心理が働いていたからであり、そのことは取りも直さず、好きという心理が働いていたからに他ならないのだ。 桃源郷である「エデンの園」を追放された人類は難儀な生きもののようだ。 それでも尚わたしは彼女に対する執着を認めようとはしていなかった。 『人間の世界の話なら倫理観や道徳観といった理性が働くが、鳥に理性を利かせろといっても埓も無い話だ!』 将又、わたしの悪い癖が頭を擡げてしまったようだ。 『この先、どうしようというのだ!』 どうやら悪人の自分の方に勢いがあるようだ。 夢の中で観た、群れから大きく逸れた一羽の鶴に望遠レンズになった鋭い目でズームする一羽の巨大な犬鷲とは、実はわたしだったのだ。 夢の中で観た、群れから逸れた哀しい宿命の一羽の鶴とは実は彼女のことだったのだ。 ― 続く ― |