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(四) 人間がどぶねずみのままで生きているなら、いっそのこと、鳥に変身した方がずっとましである。 人間でいるということは、どぶねずみでいるということを、どれだけの人間が気づいているだろうか。 殆どの人間が、自分が人間になった鳥であることに気づいていない。 どこかで見覚えのある光景の中に彼女の姿を投影してみることに気づかなかったのも、自分が鳥になった人間だという夢を観ていたからであり、当然のことだが、自分がどぶねずみであることなど想像だにできない。 人生の殆どが後悔の念という海の中で過ごしてきたリバイアサンであることに気づいた人類は殆どいないらしい。 どぶねずみの「どぶ」とは、まさに、リバイアサンの棲む海の塩水のことに違いない。 彼女を大事にしたい衝動は、どぶねずみの衝動に過ぎず、本音のところでは、所詮、自分を大事にしたい衝動に過ぎない。 熱い恋をしたオスとメスがお互い思いきり傷つけあうのは、どぶねずみの衝動ではない証拠だ。 大人の恋をした男女がお互い大事にするのは、どぶねずみの衝動である証拠だ。 『二度と同じ過ちをしないぞ!』 決意したわたしは、彼女を突き倒した。 『こんな獣のようになった自分を彼女はどう思うだろうか?』 弱音のどぶねずみが自問すると、彼女の熱い視線が突然冷たく反ね返ってくる。 思考を停止して衝動に身を任せると、反ね返ってきた彼女の冷たい視線が熱線に急変する。 わたしは複雑な気持ちになる。 どぶねずみの気持ちは複雑なのだ。 衝動に身を任せた者の気持ちは単純明快だ。 人間イコールどぶねずみの所以は、この複雑さにあることを、わたしはその瞬間(とき)気づいた。 “阿呆ほど物事を複雑に考える”と聞いたことがあるが、人間の阿呆さとは、どぶねずみの根性に他ならなかったのだ。 自分に素直に生きる。 生きるとはまさしく素直に生きることなのである。 わたしは彼女に対して素直に生きることを決意したのである。 そして、わたしは彼女を鷲掴みして自分の嘴で彼女の豊満な胸をずたずたにした。 そうすると、彼女は恍悦の表情に浸っているではないか。 『いや、彼女はそんな半端ない女性ではない!』 再び、どぶねずみの衝動の頭が擡げてくる。 わたしの気持ちを鋭く察知した彼女の表情にどす黒い雲が掛かってくる。 上目づかいの彼女の目が、わたしを責めたてる。 わたしにとって、一番のアキレス腱だ。 途方に暮れていくわたしの耳元に懐かしい唄声が聞こえてきた。 “夜のどこかにかくされた あなたの瞳がささやく どうか今夜のゆく先を 教えておくれとささやく わたしもいま寂しい時だから 教えるのはすぐできる 夜を二人で行くのなら あなたが邪魔者を消して あとをわたしがついてゆく あなたの足跡を消して 風の音に とどかぬ夢を乗せ 夜の中にまぎれこむ あなたライオン たてがみゆらし ほえるライオン おなかをすかせ あなたライオン 闇におびえて わたしは戸惑うペリカン あなたひとりが走るなら わたしが遠くはぐれたら たちどまらずにふりむいて 危険は前にもあるから どこからでもあなたは見えるから 爪をやすめ 眠るときも あなたライオン たてがみゆらし ほえるライオン おなかをすかせ あなたライオン 闇におびえて わたしは戸惑うペリカン あなたライオン 金色の服 その日ぐらし 風に追われて あなたライオン わたしは あなたを愛して戸惑うペリカン” 彼女にとっては、わたしはたてがみをゆらし、おなかをすかせているライオンであり、彼女は、そんなライオンに恋する戸惑うペリカンなのであり、それを彼女は享受しているのだ。 ライオンが何を戸惑う必要はあるのか。 戸惑うのはペリカンだけでいい。 お互いに共通していることは、生きるということは危険なことであるということだけだ。 生きるということが危険であるから、危険を共有する者同士が惹かれ合うのは当然の帰結である。 男女の愛とは危険が付きものなのだ。 ところが、生きるということは危険だということを、人間だけが忘れてしまったようである。 だから、「危険」という否定的な言葉を作ったのだろう。 自然は冒険に満ち溢れている。 「危険」と「冒険」は同じ意味だが、捉え方は正反対だ。 わたしは以前こんな詩をつくったことがある。 “不安” “生きるとは 危険なジャングルの中に放り出されること 死ぬということは ジャングルから広大なサバンナに抜け出すこと 生まれて そして死ぬというくり返しは 夜のジャングルから 朝のサバンナ への行き帰り それが本当の生きるということ だけど あなたは 人間が勝手につくった檻の中にいる 檻はジャングルにもサバンナにも もともとないもの なにかまわりの景色と合わない不自然なもの その中に入って 生きている 鉄の格子でできている檻は丸見えのもの その中からジャングルで起きている景色を見ていると ますます檻から出るのが恐くなる それが 檻の中で生きるものの愚かな宿命 不安という 目に見えない 檻の中だけにある幻想 檻から出れば 無限の広がり すべては あなた次第の 無限の自由 だけど あなたは 檻の中から出ようとしない 不安だらけの檻の中で ただ震えるだけ 不安に対してあなたは何もできない 危険に対してあなたは何かできる 勇気さえあれば 不安を選ぶか 危険を選ぶか それは あなた次第” そしてこんなことを考えたことがある。 我々の住む4次元の時空の世界は時間という4次元目の要因に支配されている。 これを、帰納法で考察すると、(N−1)次元の世界はN次元目の要因に支配されているということだ。 だから、3次元の立体である我々すべて(N−1=3)は4次元(すなわちN=4)目の要因に支配されているという結論になる。 同様に、2次元の平面は3次元目の高さに支配されている。 1次元の線は2次元目の長さに支配されている。 立体(3次元)を、ある高さ(3次元目の要因)のどこかで切断してその断面を見るとある固有の高さでの平面(2次元)が表れる。 平面(2次元)を、ある長さ(2次元目の要因)のどこかで切断してその断面を見るとある固有の長さでの線(1次元)が表れる。 だから逆に考えると(これが帰納法だ)4次元の要因は何かと結論をだすのには、4次元の、ある固有のどこかで切断した断面が立体として表れる。 今のこの自分という3次元の立体は、今(たとえば2008年6月8日午前10時31分11秒)という固有の点で4次元のものを切断した断面をいう。 だから、4次元の要因は今(2008年6月8日午前10時31分11秒)という点を示す時間だという結論が導き出される。 だから本来3次元の立体である我々は時間を加えた4次元という器に閉じ込められている。それが宇宙である時空の世界だ。 自分が住んでいる檻が時空の世界だ。 だから、3次元の我々は2次元の平面を閉じ込めているということになる。 それが2元論である。 この2元論に3次元である我々はこだわる。 支配しているのだから執着する。 支配者は常に被支配者のことに執着する。 “この奴隷は俺のものだ、奴の奴隷ではない” “この女は俺の女だ、奴の女ではない”といった具合に。 この2元論が、善悪、正しい・間違い、強弱、成功・失敗、……といった考え方になる。 そしてその結論を出すのは自分(3次元の立体である)だ。 その執着が眠りから覚まさせない。 その2元論の決定をするから、すなわちこれは善い、これは悪いといった決定をするから、執着する。 すなわち眠ったままだ。 眠りから覚醒することだ。 この感覚を実感するための方法が1次元下げた、二元論に執着しない方法だ。 “これは良い、あれは悪い”といった善悪なんてそもそも無い。 “彼は金持ちだ、自分は貧乏だ”なんて、何にも意味を持たない。 なぜなら、そう思う自分は4次元の檻のなかに住んでいる3次元の立体なのだから。4―1=3なら意味はある。4が檻で3が自分だ。 3―1=2は無意味。3は眠っている自分、2はただの平面、何が意味ある。 ただの紙切れだ。 だから決して、ある人間を正しいとか間違いだとかいった判断を別の人間がしてはならない。 それは単なる執着だから、4次元の時空の世界にいる我々には無関係の世界である。 それを判断するのは、1、2、3、4、………N……∞(無限)の何かだ、それを神といっても、宇宙といっても、自然といってもよい。 だがそんな大袈裟な観かたをしなくてもいくらでもあなたのそばに天はいてくれる。 犬を見ていたら分かる、犬が教えてくれる。 天とは如何なるものか。 覚醒しているということだ。 覚醒していない限り人生は、必ず思いとは逆の結果になる。 近づこうとすればするほど遠く離れて行く。 車を運転していて道に迷って目的地のそばまできているのに気がつかずにまた離れて行くのと同じことだ。 人生を困難な道だと考えるか、簡単な道と考えるか、それは自分の選択次第である。 目的地までの案内書があれば、それは実に簡単なことだ。 人生も案内書があれば簡単だ。 しかも案内書はすでに与えられている。 ただそれを忘れているだけだ。 問題は忘れていることだ。 それを理解できれば、人生は簡単だ。 エゴ(自我)がそれを邪魔している。 エゴは巧妙で、ずる賢い。 簡単なことに満足しないのがエゴだ。 誰でも、口では謙遜するが、心の中では、自分は特別だ、他人とはちょっと違うと思っている。 それがエゴに栄養を与える食べ物になっている。 人生を難しくしているのはエゴである。 簡単なら誰でも出来る、それがエゴには気に入らないのだ。 自分が特別でなくなるから。 エゴが本来簡単な人生を難しくしている。 そして人生はままならないと溜め息をつく。 それが錯覚の人生だ。 世の中を楽しく、楽に生きている人には二種類のタイプがある。 一般の人は錯覚の人生を生きている。 その下と、上に、納得して生きている二つのタイプがある。 この人たちは人生を楽しんでいる。 だがその差は天と地ほどある。 ひとつは、完ぺきに無意識に生きている人、この人たちは何も努力しない。 努力しないことが楽しむことだと思っている、いわゆる怠惰な人だ。 これが一般の人たちの下にいるレベルの人たちだ。 これは納得というより無知と言ったほうが正しいかもしれない。 もうひとつは、努力を乗り超えた人たち。 この人たちの人生が納得の人生だ。 完ぺきに努力した結果、努力が絶対条件ではなかった、人生は本来楽なものだということを、ただ忘れていただけだということに気がついた人たち。 自分のエゴが難しくしていたのだと気がついた人たち。 生きることは楽しむことだと理解できたら、死ぬことも恐くなくなる。 死を恐れれば恐れるほど、死は恐怖になる。 それなら、死も楽しめば、楽しむほど、楽しいものになる。 どちらを選ぶかは自分次第だ。 問題は覚醒しているかどうかだ。 わたしは近頃ようやくわかったことがある。 生きることを難しく考えないよう努力する姿勢を持てるようになった。 一般の人たちは、本当は楽に生きたいと望んでいるのに難しいと考えようとする。 一般の人は、どんなことも明日に先伸ばす癖があるからだ。 要するに精神が怠惰なのだ。 一番下のレベルは精神も肉体も怠惰な人たちのことである。 一般の人たちの場合、肉体は怠惰でないが精神が怠惰だ。 すべてを超えた人は精神が努力する、汗することで肉体が楽になることを知っている。 だから肉体の努力を乗り越えることが出来る。 精神の汗をかくことは最初苦しむが、ある日突然これほど気持ちのいいものはないと思えるときが必ず来る。 そのときまでは精神の汗をかくことだ。 それが納得の生き方だ。 本来の普通の生き方だ。 何も難しいことはない。 何が何でも難しく生きようとする。 まず一日のはじまりの朝、起きることから、難しくしている。 そして夜、眠りに入るとき困難な一日をやっと終えたとほっとする。 だから翌朝起きるのが困難になる。 悪循環だ。 はじめに逃げたら、もう最後倒れるまで逃亡人生だ。 だから朝起きるのがつらいと悪循環に入る。 最初が肝心だ。 そして、最後が肝腎だ。 だが、自分の意思で生まれてくることが出来ず、最後に死がやってくることを知った、我々人間の一生は、最初が無くて最後がある。 だから、人間の一生、つまり、人生は最後が肝腎だ。 |