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(五) 愛する者を大事にするのは嘘の生き方であることを、60年間生きた結果、わたしはわかった。 愛する者を傷つけることこそ本当の生き方であることを、60年間生きた結果、わたしはわかった。 美しいものは傷つきやすい。 醜いものは美しいものの裏面に過ぎない。 傷つく者と傷つける者。 鶴と鷲。 鳥の世界なら、そんなことは常識である。 人間の世界だから、犯罪になる。 せめて、非常識で止まっていればよかったのだが、犯罪にまで拡大してしまった人間の世界は、美しいものと醜いものを二律背反の位置に置いてしまったわけだ。 その結果、結婚という最も醜い決め事を最も美しい決め事にしてしまったのである。 Vulnerableという言葉がわたしは好きだ。 それを日本語では“脆弱”だという醜い言葉にしてしまった。 せめて、“傷つきやすい”で止めておいて欲しかった。 せめて、“手弱い”で止めておいて欲しかった。 せめて、“壊れやすい”で止めておいて欲しかった。 わたしは彼女をとことん陵辱した。 いわゆる現実の世界、つまり、人間が鳥になった夢の世界では、わたしは彼女のことを労る。 美しい光景だ。 現実の世界、つまり、鳥が人間になった夢の世界では、わたしは彼女のことを甚振る。 それがリアルだ。 光景はいくら美しくても所詮は映像だ。 リアルはいくら痛ましくても活き活きした実在だ。 身体が眠っている世界、いわゆる夢の世界は、目が覚めている世界、いわゆる現実の世界よりも遥かにリアルだ。 目が覚めている世界、いわゆる現実の世界では、わたしは何度か疑ったことがある。 “この現実の世界は、ひょっとしたら夢の世界かもしれない? その証拠に、いつか必ず死ぬ時点で、夢と気づくはずだ!” だが、身体が眠っている世界、いわゆる夢の世界では、わたしは一度も疑ったことがない。 “この現実の世界は、ひょっとしたら夢の世界かもしれない?” こんな想いを微塵たりと夢の中で持ったことがない。 間違いなく、夢の中の方が目が覚めている中よりもリアルだ。 間違いなく、鳥のわたしの方が人間のわたしよりもリアルだ。 鳥がわたしで、人間が私だ。 言葉のないわたしが本物で、言葉のある私が偽物だ。 わたしは音だ。 私は言葉だ。 鳥は音で感応(Communion)する。 人間は言葉で反応(Communication)する。 人間は一体何時から言葉を駆使するようになったのだろう? 生まれたばかりの赤ん坊は鳥と同じで音で感応(Communion)するが、そのうちに、言葉で反応(Communication)するようになる。 そうさせた張本人は母親であることは明白だ。 では人間の歴史の中で言葉が駆使されるようになったのは、一体何時で一体何者によってだろうか? 答えのヒントは「死」の問題にあることを、わたしはやっと最近わかってきた。 「死と恐怖」の関係にヒントがあることを、わたしはやっと最近わかってきた。 「死の恐怖」ではないことを、わたしはやっと最近わかってきた。 それは、彼女を知った瞬間(とき)だった。 内なる自分と外なる自分という二人の自分に、記憶の辿れる頃に分派したようだ。 母親から生まれた直後からの記憶がないのは、一人の自分の間は記憶がないということを証明している。 内なる自分と外なる自分という二人の自分に分派した時(とき)から記憶ははじまったのである。 一人の自分が「わたし」だ。 二人の自分が「私」だ。 爾来、「私」が「自分」の位置を占めてきた。 自分の記憶とは、「私」の歴史だったのだ。 「わたし」の歴史は自分の記憶ではなく、宇宙の記憶だったのである。 その事を知ったのは、「私」は人間ではなく犬鷲であり、彼女は鶴であったことに気づいた瞬間(とき)だった。 わたしに陵辱され続ける彼女が苦痛の表情ではなく、恍惚の表情を表わしたからだ。 鶴の彼女は死を楽しんでいた。 もちろん人間の彼女は死を恐れていた。 どうやら、死を恐れているのは人間だけらしい。 どうやら、「死の恐怖」を持っているのは人間だけらしい。 「死と恐怖」の関係を理解せず、「死の恐怖」と誤解してしまった結果、人間は人生を余りなく生き切ることができなくなってしまったようだ。 潜在能力を発揮し切れないため、死を知り、死を恐怖するようになったようだ。 子供の頃に何時何処で死を知ったのか、誰も憶えている者はいない。 取り立てて、親や先生や宗教者が教えたわけではないし、生まれながら本能として知っていたわけでもないのに、後天的且つ自然発生的に死を知ったとしか考えられない。 「死と恐怖」が「死の恐怖」に曲解した結果ではないだろうか? 恐怖が子供の頭に先ず擡げた。 わたしが死を知ったのは、生まれてはじめて恐怖を覚えた瞬間(とき)だった。 冷戦の真只中で、アメリカの水爆実験に対抗してソ連が50メガトンの水爆実験をした。 アメリカが広島に投下した15キロトンの殺傷力を持ったリトルボーイという名の原爆3000個分という恐るべきものだった。 小学生のわたしが新聞で50メガトンのきのこ雲の写真を見た時、はじめて恐怖を覚えた。 その瞬間(とき)、わたしは死を知ったのだ。 “自分も必ずいつか死ぬ” その日以来、わたしも他の人間と同じように、人間が鳥になった夢を信じるようになり、実は鳥が人間になった夢をいわゆる現実だと錯覚するようになった。 夜間眠っている時に観る夢を夢だと思い込み、昼間目が覚めている時に観る夢をいわゆる現実だと錯覚するようになった。 爾来、わたしは自分と他者が同じ世界に生きていると錯覚するようになった。 よく考えてみれば、変な話である。 自分がこの世に生まれてきた時は一人だった。 自分がこの世から死んでいく時も一人のはずだ。 宗教者は言う。 “あの世が実在の世界だ” “この世は仮の世界だ” 自分と他者は別世界の存在であり、自分の世界では唯一自分が実在で、他者は映像であるはずだ。 だから、この世に生まれてきた時も一人なら、この世から死んでいく時も一人なのである。 だのに、仮の映像の世界で絡み合う自分と他者が同じ世界に存在するなんてまさに妄想に過ぎない。 「死の恐怖」など妄想以外の何者でもない。 「死と恐怖」は一体なのだ。 理解のない死を知った時(とき)から、恐怖を覚えるようになった。 爾来、人間は死に至ることに恐怖する臆病者になり、死に至ることを受け入れる勇気を失ってしまった。 人間がエデンの園を追放されたのは、禁断の実を食べたからではない。 臆病者になったから、人間はエデンの園を追放されたのだ。 人間以外の生きもので臆病者は誰もいない。 人間以外の生きもので勇気のない者など誰もいない。 ところが、人間社会では勇気のある者が称賛され、臆病者が軽蔑される。 まったくずれた話だ。 勇気が常識で、臆病が非常識なのが自然社会なのである。 死を理解した瞬間(とき)から、恐怖も理解できるようになる。 死を理解した瞬間(とき)から、恐怖は恐怖でなくなり、知る(気づく)至悦であることを理解できるようになる。 死を理解した瞬間(とき)から、死は恐怖の死ではなくなり、至悦の死であることを理解できるようになる。 死を理解した瞬間(とき)から、死は恐怖の死ではなくなり、至悦の死であることを理解できるようになる。 恐怖と対峙したら、死の理解をすることが可能になる。 人間は死を恐れて、死という恐怖から目を逸らすから、死の理解をすることが不可能になったのだ。 どんな恐怖でも畢竟、死の問題に行き着く。 どんな恐怖でも対決することだ。 恐怖と対決したら恐怖は自然消滅する。 恐怖から逃げたら恐怖は追いかけてくる。 まさに、生と死が背中合わせにあるのと同じメカニズムが、至悦と恐怖の間にあるのだ。 わたしは彼女と出逢うまで、生と死は二律背反するものだと信じて疑わなかった。 生と死は一枚のコインの表面と裏面に過ぎない、お互いに補完し合うものだったのだ。 わたしは彼女と出逢うまで、至悦と恐怖は二律背反するものだと信じて疑わなかった。 至悦と恐怖は一枚のコインの表面と裏面に過ぎない、お互いに補完し合うものだったのだ。 ああ、わたしの60年の人生は何だったのだろうか。 錯覚をしたまま生きてきた60年の人生は一体何だったのだろうか。 無駄な人生だったかもしれない。 だが、わたしは救われた。 彼女によって、わたしの人生は救われた。 世の中の人間を見るがいい! 錯覚していることを自覚もしないで、まるで夢遊病者のような人生を送っているではないか! 彼らに比べたら、わたしは救われた想いがした。 死ぬということは永遠の眠りに就くと、世の中は言う。 死とは眠りだと言うわけだ。 眠りの中で夢があって、夢を鑑賞している自分がいるから、死後の世界でも魂があると世の中は言う。 だが、大きな勘違いがあることに世の中は気づいていない。 寝ても覚めても夢の世界だということに気づいていない。 目が覚めている、いわゆる現実の世界も所詮は夢の続きであることに気づいていない。 死とは夢が完全に終わるということなのだ。 永遠の眠りとは意識のまったくない状態なのだ。 熟睡がその一瞥を与えてくれていた。 熟睡している間は、夢もないから、夢を観る自分もいない。 だから、熟睡している間は時間の経過を一切感じない。 時間の経過を感じるのは、感じる自分がいるからだ。 感じる自分がいなければ、時間など存在でき得ない。 つまり、自分がいなければ、時間など存在しないのである。 熟睡の間は自分がいないのだ。 死の間は自分などいないのだ。 自分がいない魂などあるわけがない。 自分がいない霊などあるわけがない。 なんで、こんなシンプルな真理が、人間はわからなかったのだ。 わたしに陵辱され続けている間、彼女は恍惚状態にいた。 恍惚状態は死と同じ状況らしい。 恍惚状態は熟睡と同じ状況らしい。 つまり、恍惚状態とは時間のない世界らしい。 わたしに陵辱され続けている中で、彼女は示唆し続けてくれていたのである。 「時間を意識しないで!」 「時間を意識したら地獄に落ちるわ!」 「時間を意識しなければ天国だわ!」 わたしはやっとその意味がわかった。 やはり、わたしは人間ではなく、鳥だったのだ。 やはり、わたしは人間になった夢を観ている鳥だったのだ。 寝ても覚めても人間になった夢を観ている鳥だったのだ。 わたしと彼女の間には深くて暗い河が横たわっているが、それが、深淵という深い谷であることを、やっとわかった。 暗くて深い河だった。 深淵という深い谷だった。 わたしの胸の中で、私の囁きがおこっている。 男と女のあいだには ふかくて暗い 河がある 誰も渡れぬ河なれど エンヤコラ今夜も舟を出す ROW & ROW ROW & ROW ふりかえるな ROW & ROW おまえが十九 おれ二十 忘れもしない この河に 二人の星の ひとかけら ながして泣いた 夜もある ROW & ROW ROW & ROW ふりかえるな ROW & ROW あれからいくとせ 漕ぎつづけ 大波小波 ゆれゆられ 極楽見えたこともある 地獄が見えたこともある ROW & ROW ROW & ROW ふりかえるな ROW & ROW たとえば男は あほう鳥 たとえば女は わすれ貝 まっかな潮が 満ちるとき 失くしたものを 想い出す ROW & ROW ROW & ROW ふりかえるな ROW & ROW おまえとおれとの あいだには ふかくて暗い河がある それでもやっぱり 逢いたくて エンヤコラ今夜も 舟を出す ROW & ROW ROW & ROW ふりかえるな ROW & ROW |