|
(六) わたしは人間ではなく、鳥だったのだ。 わたしは人間になった夢を観ている鳥だったのだ。 寝ても覚めても人間になった夢を観ている鳥だったのだ。 そうすると、朝と昼が逆転することになる。 そうすると、過去と未来が逆転することになる。 物理学には、「三本の時間の矢」というものがあると聞いたことがある。 「時間」とは、過去・現在・未来の三等分で区分けされるものしかないと、今まで信じてきたが、どうやら、そうではないらしい。 夢と現実が漠然としている原因が、どうやら、この点にあるらしい。 過去とは過ぎ去った出来事で、最早、戻って来ることはない。 未来とは未だ来ぬ出来事で、未だ、来てはいない。 現在とは過去でもなく、未来でもない、今である。 過去・現在・未来という「時間」は、過去から現在を通じて未来へと流れて行くものだと信じ込んできた。 ところが、物理学では、そんな「時間」は単なる一つで、まだ他に二つの「時間」があると主張しているようだ。 宇宙が誕生したのは、遠い昔に大爆発を起こしたのがきっかけらしい。 砂漠の一つの砂粒よりも遥かに小さな粒が大爆発を起こして、それ以来、ずっと膨張し続けて、現在の広大な宇宙になったらしい。 宇宙は誕生以来ずっと膨張し続けている。 過去から現在に到るまで宇宙は膨張し続けていて、更に、未来に向かって膨張し続ける一方通行だと言うのである。 この話を聞いた時、わたしは、『うん?』と首を傾げた。 だって、風船をずっと膨らますことなど不可能だからだ。 膨らみ続けた風船は必ず破裂して縮んで元に戻って行くからだ。 目の前の世界で起こっている事実をどう理解していいのか、物理学者はおかしなことを言うものだ。 現在の宇宙が膨張し続けているのなら、目の前の風船も膨らみ続けるはずだ。 わたしは阪神タイガースのファンだ。 7回のラッキーセブンの攻撃の時、膨らませた風船を一気に収縮させると、数万個の風船が甲子園球場の空に音を立てて舞い上がる。 宇宙が永遠に膨張し続けているのなら、こんな感動の一瞬を味わえないはずだが、現に、毎日のように感動の一瞬を味わっているではないか。 それなら、過去から現在を通じて未来へと流れる「時間」は一方通行ではなく、必ず戻って来るはずだ。 更に、物理学者が狂気の沙汰であると断言できるのは、過去・現在・未来という代物を「時間」と決め付けている点にある。 先に言ったように、過ぎ去った過去とは出来事であって、時間ではない。 未だ来ぬ未来とは出来事で、時間ではない。 出来事とは記憶の風景、つまり、光景である。 光景とは、光の速度で回転する空間のことのはずだ。 そうすると、現在とは、「今」という時間ではなく、「ここ」という空間になる。 過ぎ去った出来事(空間)と未だ来ぬ出来事(空間)の間に「ここ」という空間があるから、過去・現在・未来なのである。 「ここ」とはまさしく場所を示す空間だ。 「今」とはまさしく時を示す時間だ。 「今」という時を示す時間と、「ここ」という場所を示す空間の交差点に、わたしは実在するのだ。 では、わたしは「空間軸」にいるのか。 では、わたしは「時間軸」にいるのか。 「空間軸」にいると思っているのが、ニセモノの「私」だ。 「時間軸」に実在しているのが、ホンモノの「わたし」だ。 今まで、わたしは空間に存在していると思っていたが、どうやら、時間に存在しているらしい。 空間が運動していて、時間が静止していると思っていたが、どうやら、空間が静止していて、時間が運動しているらしい。 ところが、自分は静止していると思っている。 地球が一日24時間、一年365日の速度で運動しているのだから、自分は地球と同じ速度で運動しているはずなのに、自分は静止しているように錯覚しているのが証拠だ。 何という錯覚をしていたのだ。 だから、夢を夢だと思い、現実を現実だと信じ込んでいたのである。 実のところは、夢が現実であり、現実が夢であったのだ。 そうすると、自分は人間であり、鳥になった夢を観ているのでないことがだんだんわかってくる。 実のところは、自分は鳥であり、人間になった夢を観ているだけであることがだんだんわかってくる。 自分は静止しているのか運動しているのか。 自分は現実を生きているのか夢を観ているのか。 人間はどうやら逆さまに生きているらしい。 自分が逆さまに立っているのに、周りを逆さまに見ているのだ。 周りが真直に立っているのに、自分が真直に立っていると思っているのだ。 レンズを介した像が逆さまに見えるのを実像と言う。 レンズを介した像が真直に見えるのを虚像と言う。 わたしは自分の目というレンズを介して実像と言う映像を見ているはずなのに、真直に見える虚像を現実と思い込んでいる。 何という二重の錯覚なのか。 逆さまに立って見える映像が実像で、真直に立って見える映像が虚像なのに、虚像を現実だと最初の錯覚をした上に、自分は逆さまに立っているのに、真直に立っていると二重の錯覚をしている。 目の前に展開されている世界を現実の世界と思い込んでいる人間とは、一体何者なのか。 先ず、夢を理解しない限り、二重の錯覚は人間に悪循環を繰り返させ続けるだろう。 自分は人間になった夢を観ている鳥であることを理解することだ。 眠っている最中に観る夢の中では、自分は鳥になっているが実は現実なのである。 目が覚めている中で観る現実の中では、自分は人間になっているが実は夢なのである。 この真理を理解しない限り、人間は死の恐怖から逃れることはできないだろう。 人間は何故に死を知ったのか。 死を知ったことが人間にとっては恩恵なのか。 それなら、人類は祝福された生きものだ。 死を知ったことが人間にとっては災厄なのか。 それなら、人類は呪われた生きものだ。 多分、どちらでもないだろう。 恩恵も災厄もないのが真理だろう。 祝福も呪いもないのが真理だろう。 それなら、人類は祝福された生きものだ。 死を知ったことが人間にとっては恩恵のはずだ。 この究極の真理においても、人間は逆さまに見ている。 死を知ったことは、自殺できる恩恵を得たことに他ならない。 それなのに、死を知ったことで、自殺できる恩恵まで災厄と捉えているのである。 まさに、人間は逆さま生きものだ。 彼女を陵辱したいのがわたしの本心なのに、彼女を労りたいのはわたしの本心だと思っている。 いや、思いたいだけだ。 他人を信じているのではなく、信じたいだけで、実のところは、まるで信じていないのだ。 信じていないから信じたいと思っているのに、信じていると思い込んでいる。 この人間の二重の錯覚は如何ともし難い。 夢の中では彼女を労るようなことは一度もなく、いつも陵辱している。 現実の中では彼女を陵辱するようなことは一度もなく、いつも労っている。 だが、真実は逆さまだ。 これが殆どの人間の生きざまだ。 人類が世界に大きな影響力を持たない間は、まだ地球は救われていた。 地球に4億程度の人類の数なら、まだ地球は救われていた。 それが67億にもなって、然も、67億すべての人類が逆さまに立って生きているのだから、地球は一溜りもない。 わたしからでも真直に立って生きて行こう。 67億分の1からでもはじめよう。 そうすれば、誰かが、わたしと同じように、今まで逆さまに立って生きてきたことに気づいてくれるかもしれない。 そのためにも、わたしからでも真直に立って生きて行こう。 そのためには、彼女を徹底的に陵辱することだ。 それが、彼女への真の愛に違いない。 わたしは犬鷲で、彼女は鶴だから。 わたしの彼女への愛し方は、彼女を鷲掴みして自分の嘴で彼女の豊満な胸をずたずたにすることだ。 そうすると、彼女は恍悦の表情に浸っているではないか。 『いや、彼女はそんな半端ない女性ではない!』 再び、どぶねずみの衝動の頭が擡げてくる。 わたしの気持ちを鋭く察知した彼女の表情にどす黒い雲が掛かってくる。 上目づかいの彼女の目が、わたしを責めたてる。 わたしにとって、一番のアキレス腱だ。 途方に暮れていくわたしの耳元に再び懐かしい唄声が聞こえてきた。 “夜のどこかにかくされた あなたの瞳がささやく どうか今夜のゆく先を 教えておくれとささやく わたしもいま寂しい時だから 教えるのはすぐできる 夜を二人で行くのなら あなたが邪魔者を消して あとをわたしがついてゆく あなたの足跡を消して 風の音に とどかぬ夢を乗せ 夜の中にまぎれこむ あなた犬鷲 鷲冠ゆらし さえづる犬鷲 おなかをすかせ あなた犬鷲 闇におびえて わたしは戸惑う鶴 あなたひとりが飛ぶなら わたしが遠くはぐれたら たちどまらずにふりむいて 危険は前にもあるから どこからでもあなたは見えるから 爪をやすめ 眠るときも あなた犬鷲 鷲冠ゆらし さえづる犬鷲 おなかをすかせ あなた犬鷲 闇におびえて わたしは戸惑う鶴 あなた犬鷲 金色の服 その日ぐらし 風に追われて あなた犬鷲 わたしは あなたを愛して戸惑う鶴” やっと、わたしは真の自分を見つけたようだ。 せめて、わたしだけでも真直に立って生きてみよう。 67億分の1からでもはじめよう。 それが、本当の人類の責任かもしれない。 いや、それが、本当の鳥の責任かもしれない。 |