第十二章 確定性と不確定性

振り子(ぶらんこ)の原理は「生」という「あいだ」の世界だけの原理だ。
振り子(ぶらんこ)の特性は「二元論」にある。
一方の極と他方の極の間を一部円往復運動する。
振り子(ぶらんこ)運動は一次元線往復ではない。
従って、
振り子(ぶらんこ)運動は円回帰運動である。
ところが、
振り子(ぶらんこ)運動は円回帰運動の一部運動(部分観)である。
「二元論」の不確定性がここに顕れている。
「二元論」の本質が運動だけにある所以だ。
振り子(ぶらんこ)運動の(はじめ=静止点)と(おわり=静止点)は、円回帰運動の(はじめ)と(おわり)に外ならないが、振り子(ぶらんこ)運動の最中は通過点(あいだ)に過ぎない。
「二元論」の不確定性がここに顕れている。
「二元論」の本質が運動だけにある所以だ。
運動宇宙が静止・運動宇宙の所以である。
映像宇宙が実在・映像宇宙の所以である。
相対宇宙が絶対・相対宇宙の所以である。
「あいだ」は「はじめ」=「おわり」があっての所以である。
「二」は「一」=「三」があっての所以である。
「二元論」を「好いとこ取りの相対一元論」に錯覚する所以である。
ところが、
「二元論」の本質は二次元平面運動の円回帰運動にある。
「好いとこ取りの相対一元論」という錯覚は一次元線往復静止を運動と錯覚する点にある。
従って、
我々人間は「二元論」を「好いとこ取りの相対一元論」と錯覚する。
「生・死二元」を「生は好くて、死は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「オス・メス二元」を「オスは好くて、メスは悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「善・悪二元」を「善は好くて、悪は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「強・弱二元」を「強は好くて、弱は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「賢・愚二元」を「賢は好くて、愚は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「貧・富二元」を「富は好くて、貧は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「幸・不幸二元」を「幸福は好くて、不幸は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「天国・地獄二元」を「天国は好くて、地獄は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
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「健康・病気二元」を「健康は好くて、病気は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
「神・悪魔二元」を「神は好くて、悪魔は悪い」とする「好いとこ取りの相対一元」と錯覚する。
結局の処、
円回帰運動の一部(部分観)である振り子(ぶらんこ)運動を完結(全体)運動と勘違いしていることに原因がある。
振り子(ぶらんこ)運動を一次元線往復運動と勘違いしていることに原因がある。
結局の処、
不確定性の中に確定性を求める勘違いに原因がある。