第七章 わかる世界とわからない世界

映像宇宙であり、相対宇宙であり、運動宇宙である『運動の光と音の宇宙』は、有限の拡がりの宇宙である。
つまり、
「はじめ」があり、「おわり」があり、「あいだ」のある、わかる宇宙のことだ。
従って、
「理論」とは、「はじめ」があり、「おわり」があり、「あいだ」のある、わかる「法則」のことに外ならない。
「相対性理論」とは、「はじめ」があり、「おわり」があり、「あいだ」のある、わかる「絶対性理論=絶対性の法則の部分観」のことに外ならない。
一方、
実在宇宙であり、絶対宇宙であり、静止宇宙である『静止の暗闇と沈黙の宇宙』は、無限の拡がりの宇宙である。
つまり、
「はじめ」もなければ、「おわり」もなければ、「あいだ」もない、わからない宇宙のことだ。
「はじめ」があり、「おわり」があるなら、「あいだ」が必ずある。
運動の法則の鉄則だ。
「はじめ」なくして運動は起こり得ないし、「おわり」なくしても運動が起こり得ないなら、「あいだ」が必ずある。
実在宇宙であり、絶対宇宙であり、静止宇宙である『静止の暗闇と沈黙の宇宙』は、「はじめ」もなければ、「おわり」もなければ、「あいだ」もない。
従って、
「法則」とは、「はじめ」もなければ、「おわり」もなければ、「あいだ」もない、わからない「法則」のことに外ならない。
「絶対性理論」とは、「はじめ」もなければ、「おわり」もなければ、「あいだ」もない、わからない「絶対性理論=絶対性の法則の全体観」のことに外ならない。
わかる世界だけを論ずるのが科学である。
木ばかり見て森が見えないのが科学である。
わからない世界だけを論ずるのが宗教である。
森ばかり見て木が見えないのが宗教である。
在ることと、わかる、わからないとは別次元である。
わかる、わからないは二元論である。
在ることは、絶対一元論である。
相対論は、わかる、わからないの二元論に外ならない。
絶対則は、在る一如の一元論に外ならない。
相対論こそ相対性理論に外ならない。
絶対則こそ絶対性理論に外ならない。