第十一章  脆い幸福感

「もう一度、お目にかかって、この前のお礼をしたいのですが、お時間を取って頂けないでしょうか」
実際には、茂樹にただ逢いたい気持ち一心の美沙子だったが、自分の方から誘うことに気が引けたので、無理やり理由をつけただけだったのだ。
「そんな、お礼なんていいですよ。当然のことをしただけですから」
茂樹は正直な気持ちで言ったのだが、自分に対する贔屓目と女性の狡猾さが、美沙子の心にもたげた。
『なんて控えめな男性なのかしら。わたしからこんなに誘っているのに』
そう一瞬思ったが、もう一押ししてみた。
「それでは、わたしの気持ちが収まりません。どうか、わたしの気持ちも察してくださいませんか」
日本人の女性はアメリカナイズされたと昨今言われているが、千数百年もかかって培われてきた本質が数十年で変わるわけがない。
二百年余りの歴史で、しかも人種の坩堝であるアメリカだからこそ、意思の疎通を図りやすくする文化が、女性からも積極的に男性に意思表明する慣習が生れた。
いくらアメリカナイズされたと言っても日本人女性のDNAには、受身の姿勢が染みついている。
自分の気持ちを素直に表現するなら、「あれ以来、あなたのことが忘れられません。どうか逢ってください」と言えばいいのだが、日本人女性には言えない。ある意味で非常にずるいのだが、男尊女卑の文化が根付いた日本での女性の処世術でもあった。
「そんな大袈裟な!それだけなら本当に結構です」
茂樹は、女性の微妙な心理を察するほどの繊細さを持ち合わせていなかったので、正直に答えたのだが、美沙子の心には不安がよぎった。
『この男性は、わたしに全く関心がないんだわ。少しでもあれば、こんなにきっぱり断らない。どっちが本心なのだろう?こんな時、美奈子なら率直に逢いたいと言うんだろうけど・・・』
美沙子は、また美奈子のことを羨ましく思ったが、性格は変わらない。
「そうですか。それでは仕方ありません」
美沙子は、口惜しさでいっぱいの気持ちで電話を切った。
『わたしは女性の魅力がないのかしら』
自身喪失する美沙子のところに、美奈子から電話が掛かってきた。
「美沙ちゃん、今日会社に行ったら杉本さんが結婚しようと言ってくれたの。だから産むことにしたの」
あれだけ、杉本のことを憎んでいた彼女の豹変ぶりに驚いた美沙子は、嫉妬心も挨って、嫌味っぽく言った。
「だって杉本君との間の赤ちゃんか判らないんでしょう?それで結婚なんて・・・」
美沙子は腹に一物もっているだけに、言葉が続かない。
「ううん、杉本さんの赤ちゃんに間違いないこと、わたし確信があるの。だから・・・」
「美奈ちゃんが、そう思うならそうしたら・・・」
電話を切った美沙子は、何とも言えない不快感を持った。
銀行の窓口で偶然再会した時の胸のときめき、そして名前まで憶えていてくれた喜びが、二本の電話で一挙に不幸感に変わってしまったのだ。