第十二章  思わぬ出来事

美沙子は久しぶりに胸を躍らせたが、それはほんの一瞬の陽炎(かげろう)のようなもので終わった。
再び単調な日々を送る生活に戻った彼女は、『わたしの人生は、一生こんなものかしら』と思うと、憂鬱な気持ちになるのだった。
同じような生活パターンを大学を卒業してから続けていたが、こんなに落ち込んだこと今までなかった。
そして、軽い鬱状態に陥り、とうとう銀行を休んでしまった。
体調を壊して仕事を休んだことは、これまでにもあったが、ただ気分が良くないという理由だけで休むことは一度もなかった。
女性だけにある生理休暇さえ、休んだことはなかっただけに、母親の美子は心配した。
「美沙ちゃん、何かあったの?」
美沙子の部屋のドアをノックして入って来た美子が聞いたが、頭からシーツカバーを被って顔を見せようとせずに、美沙子は答えた。
「ちょっと気分が良くないだけだから大丈夫。放っておいて」
母親と言うものは、やはり自分の分身だけに、子供の異変には直感で分かるものらしい。
特に娘の微妙な心の変化は、自分も経験してきているだけに、ちょっとしたことで、その原因まで察知するものなのだ。
美子は、今は何も聞かない方が良いと思ったのか、「そう。それならいいけど」
納得はしていなかったが、これ以上聞くと返って神経を逆撫ですると思って、部屋を出ていった。
久しぶりに、部屋のベッドで一日ぼっと天井と睨めっこしていた美沙子だが、不思議に茂樹のことは考えなかった。
『女性の気持ちなんて、ちょっと時間が経つとすぐ忘れてしまうものなのかしら』
あれだけ憂鬱な気分になっていた美沙子だが、意外な自分の反応に驚いていた。
翌朝、すっきりした気分で家を出た美沙子は、茂樹との出会いの場所に電車が着いても、何の反応も体からは湧きあがって来なかった。
自分では、神経の細い性格だと思っていたが、二十四才という年齢と社会人としての認識が、徐々に神経を図太くさせていたのかも知れない。
女性にとって一生のキャラクターを決定してしまうのが、美沙子の年齢の頃である。
だから、昔から女性の結婚適齢期が二十四、五才だと考えられていた。
二十五才を過ぎた女性はオールドミスと呼ばれ、まず結婚は難しいと言われていたのだ。
それが、今や三十才を過ぎても平気で独身でいる女性の時代になってしまった。
また日本人男性も、三十才を過ぎた女性でも結婚の対象に出来る心理になってしまったらしい。
女性が強くなった時代と言われているが、その原因は、女性の結婚観の変化と、結婚適齢期が大きく延びたことにあることは明白である。
一体、いつ頃からこんな風潮になってしまったのだろうか。
強い女性になることが、女性の人生にとって幸せであるか、極めて疑問であるのだが、男女の恋愛というものは、自然界の動物の掟である弱肉強食にあることを、人間は忘れてしまったからだろう。
雄と雌の本来の在り方を忘れた動物は、必ず自然淘汰される。
そんな摂理を理解できる程、人生経験をしてきた美沙子ではないだけに、このままでは、昨今の一般女性と同じ道を歩むことになる大切な時期だった。
「いらっしゃいませ。どのような御用件でしょうか?」
何ら、変わった事もなかったように、いつもの調子で仕事に就いていた美沙子の前に、再び茂樹が立っていた。
美沙子は、ドキッとしたが、初めての時と心理状態が明らかに違っていることが、自分でも分かるぐらい冷静であった。
「振りこみ送金を、お願いします」
茂樹は、一般客と同じ口調で言って、伝票とお金を受け皿に入れて、美沙子に差し出した。
「はい、承知致しました。この札を持って、お待ちください」
茂樹は美沙子から札を受け取ったら、黙ってソファーの方へ行って座った。
受け皿の伝票とお金を、処理しようとしたら、その間にメモが挟んであった。
「今晩、一緒に食事しませんか。よろしければ、六時に渋谷のハチ公前で会いましょう。このメモにOKとだけ書いてください。和田茂樹」
メモを呼んだ、美沙子の胸がドキドキし始め、送金の処理も間違えるのではないかと思う程動揺して、メモに「OK」と書く手が震えて、なかなか書けないのだ。
「和田様!」
美沙子が絞り出すように力を入れて発した声で、茂樹は立ちあがって、美沙子の窓口の前で、伝票とメモを受け取り、「ありがとう」と言って、店を出て行った。
しばらく、呆然としていた美沙子は、「よう、早く次の番号を呼んでくれなよ!」と中年の商店主のような男性に怒った顔をして言われて、やっと我に返ったのだった。