第十四章  狭い世間

ハチ公前で待っていた茂樹が、走って交差点を渡って来る美沙子の姿を見つけた。
茂樹もほっとした表情をしたが、美沙子にそれを見抜く余裕はなかった。
実は、茂樹も不安だったのだ。
女性からの誘いを断っておいて、ある日、唐突に職場に行ってメモ一枚で,今度は自分から誘う身勝手さを重々承知していたからだ。
メモには「OK」と返事した美沙子だったが、いつ気が変わるかわからないと思うのが、人間の心理であり、特に青年期は情緒不安定だけに余計そう思うのだ。
それだけに、美沙子の姿を見た茂樹は、思わず微笑んだ。
美沙子も、茂樹の表情を見て、やっと安心感を持ったらしく、視線が合って微笑んだ。
視線が合って、お互いに微笑む。
言葉ではとうてい表現できない意思疎通だ。
この時、お互いの心に変化が生れたことを気づくのには、まだ暫く時間が掛かった。
「どうも、急に誘ったりして迷惑ではなかったですか?」
「いいえ、迷惑だなんて・・。あのメモ見て嬉しかったです」
茂樹の言葉に素直に答える自分に驚きを感じながらも、ゆったりとした落ち着きのある心地良さを味わっていた。
「恵比寿まで、ちょっと足を伸ばして頂けませんか。おいしい料理を食べさせてくれる店があるんです。是非とも、そこへお連れしたいと思って・・・」
美沙子にとっては、どこでも構わなかったが、既に茂樹が店を決めていたことの方が嬉しかった。
恵比寿は渋谷から山の手線に乗って一つ目の駅だが、この十年程で様変わりした町の一つだ。
茂樹が向かった店は、モダンな駅前とは反対側の、昔ながらの商店街がたたずむ通りのはずれにあった。
「キッチン・ボンと言うんです。もう八十才を過ぎた親父さんが自慢の腕でつくってくれるんですが、この親父さんが頑固一徹で気に入らない客は断るんです。だけど味は逸品です」
「キッチンボンならわたしも知っています。何度か行ったことがある店で、とてもおいしいあわびの料理がお気に入りなんです」
キッチンボンは、お互いに良く知っている店だったが、まさかその店を通じて共通の知人がいたことを、美沙子がすぐに知ることになるとは思いもしなかった。
「なんだ、ご存知の店だったのですか?」
少し落胆した様子で言う茂樹に、美沙子が申し訳なさそうに言った。
「大学時代の友人の恋人で杉本耕作さんという方に、最初一緒に連れて来てもらって、すっかり気に入って、その後何度か同じ銀行の同僚と行ったことがあります。お気に入りの店だから、よかったです。本当です」
「杉本耕作て言いましたね。仙台出身の男じゃないですか?」
美沙子も、確か、杉本は仙台の高校を卒業して、東京の独協大学に入ったと聞いていたことを思い出した。
「ええ、そうです。杉本さんは仙台の高校から独協大学に入られ、卒業後、コンピュータソフトの会社を経営されています」
驚いた表情で茂樹は言った。
「彼の兄は、杉本耕一と言って、わたしの仙台の高校時代から大学も会社も同じ無二の親友です。彼の弟が耕作と言います。確かにソフトの会社をやっていると聞いていました。ただ経営が大変な状態らしいと杉本が言ってましたが・・・」
『何と世間は狭いものか!』
美沙子は内心思ったが、今はそんなことはどうでも良かった。
とにかく茂樹との食事と会話を楽しみたかったのだ。