|
第十五章 茂樹の生い立ち キッチンボンで、美沙子が注文したお気に入りのあわびステーキを、茂樹は眺めて、「本当に、すごい大きなあわびですね」と驚きながら、生唾を呑みこんでいた。 美沙子は、ナイフで切ったあわびを、大胆にも茂樹の口元にもっていってやった。 茂樹は、嬉しそうに口を開けてそのあわびを口に入れてもらった。 「これは、本当においしいですね。何度もこの店に来ているんですが、今まで知らなかったです」 そう言いながらおいしそうに口を動かしている茂樹の動作を見て、美沙子は、『かわいい人!』と思った。 「和田さんは、いつもシャリアピン・ステーキを食べられるんですか?わたしも、こんなボリュームのあるお肉は初めてです」 今度は、茂樹が牛肉の薄切りステーキをオニオンと一緒に焼いたシャリアピンを切って、美沙子の口に入れてやった。 美沙子は顔を赤らめながら、口を開けた。 「なんだよう!いちゃいちゃしてさ!和田さん、あんたの恋人かい?この人」 店のお婆さんが、よたよたしながら二人のところへ寄って来て大きな声で言った。 「この、お婆さんは、中で料理している頑固親父の奥さんなんだ。口が悪いので、みんな嫌がるんだけど、僕は気に入ってるんです」 美沙子に説明する茂樹を横目に、「口が悪いって、あたしのことかい?あんたの喧嘩好きより、まだましだわよ!ねえ、お嬢さん!」 店のお婆さんが美沙子に言った。 「そう言えば、あんたも何度か来たことあるわよね。あたし、あんたのこと憶えているわ」 鉾先が美沙子の方に向いて、おどおどする彼女をかばって、茂樹はお婆さんに、「人の恋路を邪魔しないでよ、お婆さん」と笑って言うと、歳は取っても粋さを忘れていない、お婆さんは、大きく笑いながら、「ごめんよ、邪魔するのはよくないわね。ゆっくり楽しんで食べなさいな。うちのは特別おいしいんだから」とよたよた歩きながら、奥の方へ消えて行った。 茂樹は急に真剣な顔に変わって美沙子の顔を見た。 「杉本耕作と、この店に来たのはいつ頃ですか?」 茂樹が、杉本との間を疑っているのかと思った美沙子だったが、別に後ろめたいことは何もなかったので、正直に答えた。 「あれは、まだわたしが大学時代ですから、もう二年以上前だと思います。柴田美奈子という、わたしの友達の恋人が杉本耕作さんで、この店に三人で来たのです。あれ以来二人とは会っていなかったのですが、ついこの前、柴田さんが、銀行に来て久しぶりに食事をしました。その夜に電車での出来事があったのです」 「そうだったのですか。あの時は随分遅かったようですね」 美奈子を病院に運び込んだことまでは、まだ言えないと思った美沙子は、黙ってしまった。 そうすると、今度は茂樹が、自分の話しを始めた。 「僕の実家は仙台なんですが、弟も東京で勤めていますので、今はお袋一人で仙台にいます。親父は、僕が高校生の時に蒸発したままで、未だに行方知れずなんです。 東北大学に入ったけど、アルバイトしないと一家は生活できない苦学生だったから、一般の、親のすねをかじった大学生とは違います。夜の盛り場でバーテンをやったこともあります。その時に喧嘩癖がついたんでしょうね」 しんみりと話す茂樹の表情は暗かった。 美沙子には理解できない世界の話しだったから、複雑な気持ちになっていたが『どうして、わたしにここまで告白するのだろう』と疑問に思った。 女が生来持つ警戒心なのか、理由は解らなかったが、少し腰を引く気分になった美沙子の表情も曇った。 |