第十九章  夜逃げ

「神田さん、和田さんという方からお電話です」
窓口業務をしている時に、美沙子の机の電話に茂樹からだった。
『あの人から電話なんて初めてだ』
そう思った美沙子は、何か不吉な予感がしたが、まさにそれが的中したのだ。
「もしもし、お待たせしました。神田ですが」
業務用の口調で喋ると、茂樹も察して、「業務中、申し訳ありませんが、急を要する件なので、一報だけと思って電話をさせて頂きました。手短に申します。杉本耕作が夜逃げして行方知れずになったと、兄の杉本が言ってました。
あなたのお友達の方がご存知ならいいんですが。それでは又・・・」
「あのう、・・・」
美沙子が喋る暇もなく、茂樹の電話は切れてしまった。
『こんな事態になったら、結婚なんて言ってられないはずだわ。美奈ちゃんは知っているのかしら』
そう思った美沙子だが、この前の一件依頼、美奈子からも電話はないし、自分から電話をかける筋合もなく、完全に没交渉の状態だった。
『普段は何の連絡もなく、自分の都合の時だけ連絡してくる身勝手な子なんか相手にしてられない』
そう思っていた美沙子だったが、ふと電車の中で暴漢に絡まれた時に、『こういう時に、美奈子が居てくれたらどれだけ気強いか』と頭によぎったことを思い出した。
『いざという時に、あの子は必要だ』
思い直した美沙子は、美奈子の家に電話をした。
「もしもし、柴田でございますが。どちら様でしょうか」
『美奈子のお母さんだわ』
内心、杉本耕作が夜逃げしたことを、母親の幸子に伝えて電話を切ろうと思ったが、気持ちを切り替えて幸子に言った。
「あの、この前お伺いした神田ですが、美奈子さんいらっしゃいますか?」
「いえ、いま留守にしております。それよりこの前は本当に正直な意見を言って頂いて、わたしたちはあなたに感謝していましたのよ。本当にありがとうございました」
『ちょうどよかった。美奈ちゃんがいないのだから・・・』
そう思って事の仔細を幸子に伝えた。
しばらく無言でいた幸子が、「実は、昨日から帰宅していないので心配していたのですが、関係あるのでしょうか?」
『やっぱり』
美沙子は幸子からの気弱い口調で、少し強気になって喋った。
「お伺いした後、美奈子さん、どんな様子だったでしょうか?」
「ええ,あの後、主人が、美奈子に結婚は許さないと言ったものですから、部屋に閉じこもってしまって。あれ以来まったく言葉を交わしていないのです」
『すべてを言った方がいい』
他人のプライバシーのことを、たとえ親であっても言うべきでないと思ってこの前は、耕作の一般情報だけ喋った美沙子だったが、事情が事情だけに決心して幸子に言った。
「美奈子さんが妊娠しておられたことご存知だったでしょうか?」
無言だが、あきらかに動揺している様子がわかる。
「もう一ヶ月前ぐらいでしょうか、美奈子さんから夕食を誘われ、食事をした店で倒れられ、救急車で病院に運ばれたことがあったんです。その時に妊娠していることがわかったんです。わたしも病院まで付き添っていたんです。もう中絶は無理な状態だったようです」
やっと幸子が口を開いた。
「それが杉本さんと結婚したいという理由だったのですね」
普通なら、誰でもそう思う。
美奈子は杉本との間での交渉の結果だと言い張っていたが、美沙子の直感では違うと思っていたし、それを美奈子自身もわかっているはずだとも思っていた。
しかし、さすがにこれ以上の事実を明かすことは出来ないと思った美沙子は、「そうだと思います」
良心の呵責からだったのか、嘘をついてしまった。
「いろいろとご心配かけてしまった上に、お手を惑わすことになって申し訳ございません。後はわたしどもがやりますから、どうかこの話しは誰にも・・」
「わかりました、それでは失礼いたします」
電話を切った美沙子は、『口止めされた』と思った。
『だけど、美奈ちゃんも一緒に夜逃げしたのかしら』
やはり友達だ。心配になってきた美沙子は、窓口業務の休み中に茂樹に電話をした。
「もしもし、加藤商事ですが」
女性が返事した。
『この前の女だわ』
敵対心がむらむらと湧いてきた美沙子は、「あじさい銀行の神田と申しますが、和田さんをお願いします」
問われる前に自分の方から身を明かして言ったら、「少々、お待ちください。和田さん、あじさい銀行の神田さんて方からお電話です」
また電話を保留にせずにいる。
『この女、よほど躾のされていない家庭に育った子なのだわ』
もう完全にライバル意識を燃やしている自分に気づかない美沙子だった。
「もしもし、和田ですが。さっきの件で、何か新しい情報でも入ったのですか?」
『やはり男の方が根は正直だ』
茂樹の人目をはばからないで喋る様子に、女のいやらしさをつくづく感じた美沙子だったが、茂樹の声を聞いて、そんな想いもすぐに忘れていた。
「ええ、そうです。それでお目にかかってご相談したいのですが」
ちょっと不安な気持ちで言ったら、「もちろん、いいですよ。また例のところで六時にしましょう。いいですか?」
「はい、ありがとうございます」
心がうきうきする美沙子は、すっかり美奈子のことなど忘れて、茂樹にまた逢えることを喜んでいた。