第二十九章  久しぶりの母子

茂樹が実家に帰ったのは、既に十一時を過ぎていたが、母の保子が夕食の支度をしてくれていた。
茂樹は、とても夕食を済ましてきたとは、保子の顔を見て言えなかった。
『多分、何も食べずに待っていたはずだ』
そう思うと茂樹は、作り笑いをしながら、大きな声で言った。
「ああ、母さん。俺、腹が減ったよ、何か食わせてよ」
余ほど、その言葉が嬉しかったのか、ずっと泣き顔をしていた保子の表情が急に明るくなった。
台所で夕食の支度をしている保子の姿を見ていた茂樹は、『えらく、歳を取ったな』
と感じると、今度は茂樹の方が哀しくなるのだった。
『あの時も、お袋の背中はまだ四十になったばかりなのに、こんな背中をして泣いていたな』
父親が蒸発したのが解った時、まだ仙台南高校の二年生だった茂樹は、まだ十六才だったが、そのショックは強烈だった。
『多分、悪い女にでもそそのかされての逃避行だったんだろうが、外に女がいただけなら、世間でよくあることだから、ここまでのショックはなかっただろう。だが家出までするということは、家庭そのものを捨て去ったのだ。こんな親父は、男としても許せない』
二十九才になって、少しは男と女の埋めることの出来ない溝があることを、水商売のアルバイトをしていた大学性の時に既に知ってはいた茂樹でも、父親の行動だけは、人間として許せなかった。
そう思うと、母親が不憫だった。
「母さん、そろそろ東京に来ないかい?」
保子に声を掛けた、その背中から返事が帰ってきた。
「東京は恐ろしいところだから、嫌だよ。お前、杉本耕一君の実家知っているだろう。
今,東京と仙台のやくざが連日やって来て大変らしいよ。耕一君は知らないだろうけど、弟の耕作さんという腹違いの弟さんがいただろう。その子がやっている会社が倒産したらしくて、やくざが毎日数人押しかけては、脅しているらしいよ。この根岸の町まで噂が流れて来るよ」
仙台市内と言っても根岸町や長町は昔の住宅地だから、みんな古い付きあいがある。
だからちょっとした噂でもすぐに広がる。
「母さん、そんな話し誰から聞いたの?」
知らぬ振りをしながら聞いた茂樹に保子はもっと衝撃的なことを言った。
「そんな程度の話しは、この辺りではみんな知っているよ。何か今晩で片がつくらしいよ。その弟さんが東京の大金持ちのお嬢さんと結婚したらしく、そのお嬢さんの実家が、借金のすべての肩代わりしてくれるらしいよ。東京でもそんな優しい方もいるんだね」
母親の話しを聞いた茂樹は愕然とした。
『今からホテルユニバースに電話をして連絡してやらなければ、とんでもないことになりそうだ。だがここで電話をすると、お袋に余計な心配をさせる』
茂樹は迷っていた。
「母さん、ちょっと五分ほど外の空気を吸ってくるよ」
何の疑いもなく、保子は言った。
「もうすぐ、お前の好きな肉じゃがができるから,早く帰ってきなさいよ」
ポケットの携帯電話を確認した茂樹は、家の外へ出て、すぐに美沙子に電話をした。
耕一とホテルのバーで遅くまで話しをして、やっと眠気が襲って来た矢先の茂樹からの電話だったが、驚きで目を醒ませた美沙子は隣の部屋の耕一に茂樹からの電話の趣旨を伝えた。
「今から、和田の家に行きましょう。そしてそれから僕の実家に」
怒りの顔で真っ赤にした耕一の表情を見て、美沙子はこれから起こるであろうことを思うと、仙台にやって来たことを後悔するのだった。