第三十九章  取りあえず良かった

タクシーに飛び乗った茂樹に、運転手が聞いた。
「お客さん、どこまで行くんで?」
その言葉で、我に帰った茂樹は、「吉祥寺まで」と答えると、「水道道路を行きますか、それとも初台から、甲州街道に入りますか?」
茂樹にとっては、どうでもいいことを、その運転手はしつこく聞く。
「一番速い方法で行ってくれたらいいよ!」
茂樹が面倒くさそうにに言うと、この初老の運転手は、『お客の身になって考えてやっているのに』と不快感を表情に出したが、茂樹は気が動転していて、まったく気がついていない。
「ぶあああん!」と猛烈なエンジンの音がして、車が猛スピードで走り出し、びっくりして我に帰った茂樹は、「運転手さん、どうしたんだい、急に?」
「お客さんが、一番速い方法で、と言われるんで、急いでいるんですよ」
ふてくされるように喋る運転手に、「近ごろのタクシーの運転手は、会社をリストラされた素人が多いようだが、あんたもそのうちの一人かい?」
個人タクシーとして三十年以上続け、タクシードライバーとしての誇りを持っている、その老運転手は、茂樹の言葉に、頭が完全に切れたらしく、急ブレーキを掛けて、車を止めた。
「お客さん、悪いけどここで降りてください。料金は要りませんから」
運転手は、そう言って、自動ドアを開けた。
「出て失せろ!」と言わんばかりの顔つきをしている。
自分以上に気が短い運転手に、度肝を抜かれた茂樹は、さすがにひるんで、「運転手さん、そこまで怒るようなことを俺言ったかい?」と下手に出た茂樹に、「あんた、何か悩みごとでもあるのかい?さっきからほとんど上の空だよ」
その初老の運転手からしたら、茂樹は自分の子供のようなもので、急に強気な態度から、親身なものに変わっていた。
見失らぬタクシーの運転手だが、その態度に心を打たれた茂樹は事情を話した。
「それは、心配ですね」急ぐ理由(わけ)が理解できた運転手は、開いていたドアを閉め、ハンドルを握り直し、「吉祥寺のどの辺りですか?」正面を睨みながら、後ろの茂樹に質問をした。
「井の頭公園正面入り口のすぐ近くです」
茂樹も、横柄な喋り方を改め、丁寧に喋った。
「それなら、水道道路を走った方が早いですから、そちらから行きましょう」
美沙子の家の前に着いた車から、料金を支払って降りた茂樹は、その運転手に言った。
「運転手さん、ちょっとこのまま待っていてくれませんか?」
「わたしも一緒しましょうか?」
まるで身内に対する態度に変わった運転手に、茂樹は頷いた。
『万が一、家の中で何か事件が起きていたときのことを考えたら、一人で行くのは余りにも危険だ』と思ったからだった。
門のチャイムを押したが、返事がない。
外から門を開け、中に入って行った二人は玄関のドアの前で顔を見合わせた。
茂樹が、静かにドアの取手を回した。
ドアはロックされていなかった。
ドアをゆっくりと開けると、目の前に美沙子が立っていたのを見て、二人はびっくりした。
「和田さんじゃないですか?一体どうしたんですか」
茂樹は、驚いた表情で言う美沙子の肩を引き寄せ強く抱きしめた。
「無事でよかった。ではわたしは御用済みなんで失礼しますよ」
運転手が門の方に去って行くことも忘れて、茂樹は美沙子を抱きしめたまま、「よかった、取りあえずよかった」と言った言葉が、美沙子には奇異に聞こえた。